ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

スピーチ

私のように世の中に対して厳しい視線を送る人間がなぜこのような体型をしているか。要するに、自分を律することができていないのではないかという疑問がごく一部の世論として存在するようなので、本日はそれについて考察しお答えしたいと思う。

考察という表現をするとあたかも私が理解できていなかったことだという印象を与えてしまうかもしれないが、このことは私の中では結論が出ている。しかるに当たり前のことすぎて逆に推敲したことがなかったというのが正確であろうか。私はなにか思想があって「こういう体型になろう」と思ったことはなく、世間に疑問を感じ、世の中の一員だった自分から脱し始めるにつれて、自然とこのように肥えふとり始めた。

結論から言うとだね。世間というのは私のノドにいたのだよ。世間を信用できなくなり懐疑的になった私は、自分の中にスパイのように存在する社会の存在を暴き出そうとしていた。いつものように夕食を食べて終えかけているときにそれは突然見つかった。ノドが私の意思を離れて「それ以上食べると体によくないぞ。塩分も糖分も油分も摂取しすぎなんじゃないか」と説教を垂れていることに気が付いたのだよ。

ここまで聞いて私の話に違和感を感じた人がいるのならこれからも幸せに暮らしていって欲しいと心から願う。なぜなら私は私の味方をかき集めて新たな小さい社会を築き上げることなんてこれっぽっちも願ってはいないからだ。私はここ何十年もの間、規則正しく三食とった日なんて一日もないということを断言できる。意地を張ってズラした食生活をしていたわけではない。私は私に合った生活というものに気付けたというだけなのだ。私が食べるという自体はあまり好きではないことも付け加えておこうと思う。食べることは戦いだ。私は社会に負けるわけにはいかないのだ。

堕落

約束や計画して行動できる人はすごいと思う。いついつまでになになにをしますという約束に、自分は異常なまでのプレッシャーを感じてしまう。責任感が強いといえば聞こえがいいが、プレッシャーに圧しつぶされて頓挫することもしょっちゅうあるのでいい特徴でないことはハッキリしている。

やっている最中がある程度楽しいことじゃないと全ての作業は苦痛でしかないように自分は感じる。たとえば運動部の走り込みなんかは自分のもっとも嫌いだったことだ。「自分は今なにをしているんだろう」「これを続けて一体なにになるんだろう」という憂慮がそれを続けている限り加速度的に増幅して、耐えきれない重圧を自分にかけてしまう。さっきの走り込みの例えで言うと、走る辛さは1、2、3と進み、10で辛くなり始めたとしたら10、11、12、13と増える走る辛さに対して自分の憂慮による重圧は1、2、4、8と倍々で増え、次の16ではもう走ることの辛さを追い抜いてしまうのだ。

そう考えてみると、どちらかというと自分には頭を使い続ける方が向いているのかもしれない。そういえば浪人した時の受験勉強が辛かったという記憶はほとんどない。そんなことも証左になっている気がする。

ディズニーランド

自分もディズニーランドに行きたがりたい。ディズニーランドが至高で、実生活はディズニーランドに行く為の我慢の期間みたいな価値観を持っている(ように見える)人を見ると羨ましくなる。まず自分から見るとディズニーランドなんて着ぐるみと機械とお土産で出来てて何が楽しいのか分からない。足疲れそうだし何するにも金かかりそうだしやっぱり何が楽しいのか分からない。というか、ほんとに何が楽しいのか分からない。何が楽しいんだろうか?理解できないけど、理解したいわけでもない。なぜかというと自分はディズニーランド好きだと思われたくはないからだ。なんかかっこ悪い。しかしディズニーランドには行きたがりたい。それはなぜだろうか。

ディズニーランドに行きたがってる人はそもそも、自分とは世界の見え方が最初から違う感じがする。世界の見え方が自分と一緒の人を見たこともないけど、ディズニーランドに行きたい人は如実に顕著に自分とは違う世界の人だと感じる。自分はディズニーランドに行きたいと思われたくはないが、ディズニーランドに行きたい人は大抵いい人だと思う。悪い人はそんなにいないような気がする。ディズニーランドに行きたい癖に悪い人なんていうのがいたら、そいつは逆に相当悪い奴だと思う。

話は逸れたが、他にもディズニーランドに行きたがるメリットはあると思う。まずディズニーランドに行けばなんとかなるというのがメリットだ。日頃うだつが上がらなかろうと、周りになめられてようと関係ない。ディズニーランドに行ける程度の収入さえ確保できればいいのだ。しかも働くにしても余計なモチベーションのブーストはいらない。なぜなら働けばディズニーランドに行けるのだから。そして友達も出来ることだろう。友達との話題に困ることもない。なぜならディズニーランドの話をすればいいのだから。その段階に達すればもう忙しくてディズニーランドに懐疑的になる暇もないのではないだろうか。そうなってしまえばもはやディズニーランドはただのディズニーランドではない。それは自分の生活を規定する堅牢な砦となるのだ。ディズニーランドはいいものだ。ディズニーランドに行きたがりたい。

サステイナブルに

日頃考えていることが何にもならず忘れられていくことがもったいなくてこの日記を書き始めたのに、最近10日置きくらいの更新になっていることに驚いた。近頃の自分は10日置きにものを考えているのだろうか。そんなはずはないと思う。

思考のタイプは一辺倒ではないのでいろんなフォーマットを考えてカテゴリで分けたりしてみたつもりだが、まだフォーマットが足りないのかもしれない。しかし自分の日常のなにげない思考を意味ある形で残す方法を考えるのは普通にかなり難しいことだと思う。そういう意味ではよくこれだけ無駄にカテゴリを分けたものだと自画自賛しそうにもなる。

日常でなにかものを考えるというのは、必ずといっていいほどきっかけになる出来事やニュースがあってのことだと思う。しかし自分はなるべくそのきっかけになったことの固有名詞はあまり使いたくない。それが気軽な更新を妨げる1番のきっかけのような気がする。時事ネタ的な固有名詞を使うと、なんとかく言っていることが陳腐になるような気がしてしまう強迫観念が自分の中にあるのだ。しかし「実際きっかけがあって考え始めたことなら、そのきっかけも書いといた方が意味はあるような気はする。」という想いもあって「じゃあ結論、陳腐だと思われたくないからやめとこう。」という処理が自分の中で行われているのではないだろうかと思う。

なんやかんや考えすぎて下手な縛りを作ると自分のせっかくの日常思考がまた記録されにくくなってしまうので、これからのことは特に決めずにおこうと思いました。置かれた10日の思考が後になってみるともったいなく感じたことが、今回の日記のきっかけです。これは別に固有名詞でもないし、書いても陳腐ではないと思う。

非医者の不養生

自分は自分で思っていた以上にガタが来ているのかもしれないと最近思う。高校生くらいの頃からそもそも健康診断が嫌いだった。なぜなら自分が健康なはずがないからだ。病院も嫌いだ。どうせ完治したってまた行かなきゃならなくなるからだ。医学の知識なんて1byteも持ってないから分からないが、今健康診断をしたらひょっとしたら「なんでこんなになるまで放っておいたんだ」と医者に言われるかもしれない。もしそんな風に医者を驚かすことができたなら、少しは今まで病院に行かずに過ごしてきた甲斐がある。しかし現段階ではまだそうなる確率はそんなに高くないと思う。医学の知識はないが、まあまあ生きているからだ。

もし医者の度肝を抜くことに成功して、「なんでこんなになるまで放っておいたんだ」と言われたらなんと答えようかさっきまで考えていた。あまり気を衒ってもイタいだけなので、「みんなこんな感じで生きていると思ってた」と飄々と答えるのがベストなのではないかと自分の中でひとまず答えが出た。

グラグラ

目覚めると僕はまず、酷い頭痛と倦怠感の只中に自分がいることに気が付いた。「お前は昨日不良に袋叩きにされて気を失ったんだよ。」と事情を知っている風の誰かに言われたなら今の僕はすんなりと信じてしまうだろう。頭はガンガンというかジンジンというか、そんな感じがするし、どことは特定できないが体も鈍痛がするような気がするし、少し寝小便でもしてしまったのだろうか、局部周辺にも嫌な違和感がある。とりあえず水をコップ一杯飲んだが、ただの水道水がこんなに美味しく感じることがこれからの人生であるのだろうかというくらい美味しかった。

いろいろと僕もやらなきゃいけないことはあるのだけれど、このような状態では仕方がない。今日は一日かけて病院に行くこととしよう。

「おいおい兄ちゃん、しっかりしてくれよ。」気付けば次の瞬間、僕はバスの運転手に怒られていた。病院へ行く唯一の手段であるバスにフラフラと乗った僕は、どうやら財布を忘れていたようだ。

「今回は大目に見るけどよ。その代わりにこの薬を中条のじいさんに届けてくれねえか。そしたらバイト代ってことで、運賃は建て替えといてやるよ。」

中条のじいさんの家はこのバスでは通れないような狭い道の先にある。歩いてあそこまで行くとなると1時間近くはかかるが、僕に断るという選択肢は残されていないのだろう。病院は今日は諦めるしかないようだ。僕は薬を受け取るとバスを降りてトボトボと歩き始めた。寝起きのときよりは体調もいいし、この分なら問題なくミッションはこなせそうである。

「早くお前結婚でもして、お前のばあちゃん安心させてやってくれや。そうでもしないとあのばあちゃん、おちおちあの世にも行けないじゃねえか。」

気付けば僕は中条のじいさんに昼飯を振舞われていた。中条のじいさんはとても薬がいるとは思えないような饒舌ぶりで、さっきから笑っている。次はそろそろ自分の若い頃の武勇伝でも聞かされるのではないだろうか。とはいえ昼ごはん代も浮いたわけだし、無駄話に付き合うくらいなら僕もやぶさかではない。

「それはそうと駄賃やるから、ちょっと裏の林の手入れしてくんねえか。」

気付けば僕は村の林業組合の人たちの飲み会に紛れ込んでいた。

「中条のじいさんも無茶言うよなあ。お前もボーッとしてるようで大変だな。ほら。遠慮せずに飲めよ。飯もあるから、食ってけ食ってけ。」

気付けば僕は朝も乗ったバスから降りて、ガードレールの向こう側の崖の下にさっき食べた物や飲んだ酒を吐いていた。今日もなんやかんやで疲れたな。あとはもうベッドに潜り込んで寝ることしか僕には考えられない。

プリン

ネットを見ていると不倫の話題をよく見かけるが、その頭の悪さはすごいと思う。自分に縁のない世界だからというのもあるけど、すごい馬鹿な世界に見える。いい歳したおじさんおばさんが恋愛で頭が沸騰しちゃっているのは非常に滑稽でみっともない。何か趣味といえるものの1つでもないのだろうか。

自分が大好きなマズローの欲求段階を思い出すとまあ不倫のメカニズムもなんとなく分からないでもないが、承認欲を満足させる為だかより異性として質の高い相手を求めるという衝動は自分からすると昆虫レベルの衝動に見えてしまう。よりよい遺伝子を持ってそうな雰囲気を、より高度に演出している相手を求めたがっているのだろうから、理屈の上では昆虫レベルといって差し支えないとも思える。

不倫と称して頭の悪い享楽に身を置く人たちは世の中の謎を解き明かしたり、自分の中の何かを紐解いたり、逆にそれらをなんらかの形に昇華したり、そういう欲求はどこに置いてきてしまったのだろうか。そう思うと自分は世の中の頭の悪さに絶望感を覚えることを避けられない。この絶望は不倫の素晴らしさを身を呈して教えてくれる人妻が現れるまで払拭されないと思う。