ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

米噛み

最近、右の鼻の穴の中がおかしい。違和感を感じて鼻をかむと血が固まった塊が出てきたりする。左からは出てこずに、右からのみ出てくる。それに加えて最近体調でおかしいのが、左のコメカミが時折痛くなるのだ。車から降りたときとか、外に出た瞬間に結構な痛みが走る。最近この2つの異常が自分を頻繁に襲ってくる。

これらの体調異常が同時に起き始めたことを考えると、自分の左こめかみが内側から剥がれ始めていることはもうほぼ疑う余地がないと思う。左が剥がれてなぜ右から出てくるのかは分からないが、まあきっと人体はそういう仕組みになっているんだろう。

例えば左こめかみだけが異常に痛くなったり、ただひたすらに右鼻から血塊が出てきたりしたなら病院に駆け込んだかもしれないが、この場合は原因と結果の因果関係がハッキリ分かっているので、その必要はないと思う。そういう意味では同時に異常が起き始めてくれてよかったと思う。

人のせいにするな

自分は責任転嫁が大好きな人間なんですが、その要因の1つに幼少期の教育があったと思います。自分は物心つくかつかないかの頃から親、特に母親から「人のせいにするな」と口酸っぱく言われてきました。自分はなぜかと考えるまでもなく「人のせいにする」ことを悪いことだと教え込まれ、それを自明の理として幼少期を過ごしてきました。しかし子供の頃は友達関係においても理不尽なことが多く、実際に「人のせい」なことも頻繁にあったのですが、それを親に相談したりすることは「人のせいにする」ことでありルール違反です。そしてうっかり人のせいにしてしまった際には、その都度ちゃんと親から「人のせいにするな」という訓示を授かり続けてきました。

しかし自分にも人並みに反抗期は訪れるわけであり、そうなった時に過剰な「人のせい」論に矛先が向かわないわけもなく、自分はその理論を悪用するようになりました。

「人のせい」論は逆手にとってみれば万能で、「人のせいにする」ことが絶対悪である限り(少なくともそう教え込まれた自分にとっては)「俺に「人のせいにするな」と言っている人間は俺のせいにしている。したがってその行為自体が「人のせいにする」行為であり、そんな不届きな人間の言うことは聞くに値しない」という暴論が成立してしまい、反抗期の自分はすっかり「人のせい」論原理主義の過激派に成り果ててしまいました。

結局「人のせいにする」ことが絶対悪だなんてことはなく、その理屈の論拠は「自分の母親に言い聞かされた」ということだけです。こんな風に言うとまともな人は「母親のせいにしている」と思うのでしょうか。原理主義過激派の自分には客観的な判断ができません。

東北は陰湿

自分が大学受験の後期試験を受けるために東北に行った日、あの大地震が起きた。当然な気もするが予約していたホテルからは「人を泊められる状態ではない」と断られ、その日は大学の敷地で野宿した。次の日が試験の当日だったのだが、試験の時間まで暇だったので自分は近所をうろちょろしてみることにした。

倒壊しているような建物は見当たらないが信号は止まり、警察の人?が信号の代わりの役目を果たしていた。コンビニはどこも長蛇の列ができていた。みんな食料の買いだめがしたかったのだろう。自分は時間がつぶしたかっただけなのでとりあえずブックオフに入った。

しばらくブックオフで立ち読みしているとどこからか「臭くね?」「臭いよね」という数人のヒソヒソ話が聞こえてきた。無視していたのだがあまりに耳障りなので声の発生源を探すと、野球部っぽい高校生が4、5人でヒソヒソ集まってニヤニヤ笑いあっていた。自分が見にきたことに気付くとその集団は逃げていった。「これはもしかして」と思い、陳列棚を見ながらという感じでその集団の方に近付くと彼らはどんどん逃げる。そこで自分は「やっぱり俺のことを言っていたのか」と気が付いた。

前日に大地震があり街が混乱気味で、ラジオからはその被害の大きさを知らせるニュースが止まらずに伝えられている中、そんなイジメのような悪趣味な遊びに興じる神経というのは一体どういうものなのだろうか。偏見もあるかもしれないが、自分は初めて踏み入れた東北という土地で強烈な衝撃を受けた。自分の地元ではまずこんな体験は出来ない。

確かに前日は野宿だったので多少は不潔だったかもしれないが、他人を不快にさせるほど臭くなっていたとは思えない。当の高校生たちも迷惑がってるというよりクスクス笑っていたし、悪趣味な遊びにしか見えなかった。自分は不快な思いとそこそこのカルチャーショックを抱えて店を出た。試験は滞りなく済ませられたが、東北に対する最悪な印象は自分の中で一生残っていると思う。

夢昨日の

1ターン目:「ドロー。なになに、森の中にあるオアシス的な絵の土地か。これは見たことないから効果を読まないとな。『(青),T:マナプールに(青)(青)を加える。(白),T:マナプールに(青)(緑)を加える。(緑).T:マナプールに(緑)(◇)(◇)を加える。』か……。つまりこれは、どういうことだ?これ1つじゃマナ出せないから初手ではないにせよ、どういう動きをするのかサッパリ分からないぞ。1つ目から読み解いていくと、青があれば青になる。白があればその白を青緑にできる。緑があれば、無色の2マナ土地になるのか…。最後はまあ強いけど、ほかの2つ、特に白があるときの挙動のクセがすごいな。そして自分の手札にある土地が出すマナはよりによって無色と白か……。まあ初手は平地で仕方ないとして、これ出したらどうなるのかが未だによくわからないぞ。というか手札に(白)(1)がいるけど、2ターン目にこの変な土地出したらこいつ出せないのかよ。まあとりあえず平地だしてターン終了するかな。

………

1ターン目:「ドロー。どれどれ、なるほどこのデッキはラクドスカラーっぽいな…………。」

新人類

自分が病院にいけば絶対になにかしらの病名をもらえると思う。要因が先天的なものか後天的なものかは分からないが、昨今よく聞くなんちゃら障害みたいなやつは一個くらいは賜られられるのではないかと思う。学校で馴染めた試しはないし、集中力もないし、対人関係も得意じゃないし、どういう診察をするのかは知らないけど早めの段階で医者もなにか察するのではないだろうかと思う。しかしまあ自分でそれっぽい要素を列挙していくと、どれも甘えのような感じもする。本気で時間をかけて鍛えれば矯正も難しくはなさそうにも思える。しかし実際そんなことをするのは面倒くさい。この面倒くさいというやつも自分が抱える障害によるものに違いない。なぜかというとおそらく自分のように矯正の努力をしないことは常人には耐え難いことのように思えるからである。「しなくてもいいことをするには、莫大な量の理由が必要である」という自分の行動原理は一般人には嘘のようなものなのではないだろうか。しかし耐えられないという点を抜き出すと、常人の方が脆いということにならないだろうか。とすると自分は単純に人類として次のステップに進んだ「次の常人」のような気も、まあほんのちょっとだけしないこともない。ということはまあ結局常人の医者から見たら異常者であるから、冒頭の予想は覆らないことになる。

世界がもうちょっと完璧ならね

前も書いた気がするけどやはり「自分の人生が順風満帆だった」というコンプレックスも存在すると思う。自分の中で、そういう人は順風満帆じゃない人に対するアドバイスや持論を説きたがるイメージが強い。その心理を推察するに、他人の厄介ごとを分けてもらいたい心理が働いているのではないだろうかと思う。この時点でも少しいけ好かないが、まだ聖人とも言えるだろう。しかしそういう人はその人生。順風満帆たらしめた適切な警戒心を持ち合わせている為、厄介ごとに本格的に首を突っ込む前に適切な壁を設けてしまい、結局二次災害に巻き込まれずに済んでしまっているような印象もある。それゆえその性分によって、結局そういう地位を順風満帆に確立してしまい、意識してるのかしてないのかは知らないがその根深いコンプレックスをより強固なものにしてしまうのである。

癌痛

今日末期ガンの祖父に会った。全身に転移しているらしく、とても辛そうだった。ギリギリ話せるようだったがとにかく辛そうだった。母親の父だけに、珍しく母も感情を抑え込んでる様子だった。自分はどんな顔をしたらいいのかも何を話しかけたらいいのかも分からなかった。母が自分に何か声をかけるように促している感じがしたので必死に考えた結果自分の頭の中は「どこが痛いの?」という質問で埋め尽くされてしまった。なんとなく空気が読めてない感じがしたので当たり障りのない言葉を選んで声をかけたが、祖父は「ありがとう」と言ってくれた。

でも実際ガンになるとどこが痛くなるのだろうか。「ガン=死ぬ」というイメージだし、「ちょっとガンが痛い」というセリフも聞いたことがないので考えたこともなかったが、現実の祖父は辛そうだったし、どう見てもどこかが痛そうな様子だった。残された時間は少ないが、もし万が一2人っきりになる機会があったら聞いて見たいと思う。