ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

 夜の7時すぎ、俺は友人Aの部屋に着いた。一人暮らしのAが引っ越すらしく、部屋の片付けの手伝いを頼まれたのである。友人Bも頼まれたらしく、先にAの部屋で作業をしている。とりあえず物という物を一つの部屋にまとめる作業をしているらしい。俺も早速その手伝いに加わった。

 物置に近い状態になっている部屋があり、その部屋と物を並べている部屋を繋いでいる廊下がある。その廊下には窓があり、窓の外は崖になっている。崖の向こうには民家はないが、野球場があり、草野球のナイトゲームをしているため明るい。そのさらに奥は山のようだ。

 俺とAとBは何往復かして、物置部屋も大方全容が明らかになってきた。1つ分かったことがあって、暖房器具が妙に多いのだ。そのことを軽い調子でAに言うと、Aは照れ臭そうになにか言っていたが、聞き取れなかった。一人暮らしを始める前のAの自室にほとんど暖房器具がなかったことを、俺は思い出したが、そのことが関係あるかどうかはわからない。

ほらほらほら

この虚無、欠落、余白はなんなんだろう。なにもしなければ何も生まれないはずではないのだろうか。人間の心は真空だと思っていたが(なぜそう思っていたのだろうか?)、ビッグバンが起きる予兆のように、何もない空間になにか起こりそうな、思わせぶりなこの空虚はなんなんだろうか。なにかを満たしたいのか、「なにかを満たしたい」と思わされているのか。なにかあったはず、あるべき場所になにかがない。突き動かされるわけでもない。「なんか入れたら?」というような、あてつけがましいスペース。なにかして欲しいなら、それなりの態度ってもんがあるじゃないか。そんな態度でいつまでも動くほど、人間素直にできていないのに、こちらが大人になるしかないのだろうか。

遠心力

自分は最近、祖母の手伝いをする事がメインの仕事になっている。祖母は働くのが好きで、1つ終わるとすぐ次の仕事を探し当ててくる。終わってから見つけ出すのはまだ良い方で、1つの仕事を言い渡されてからすぐに、別の動作を求められることもしばしばある。例えば「Aの仕事を終わらせおくれ」と言われ、そこへ向かっている最中に「さっきあげたお茶飲んでからおやり」という指示が入るのだ。

物理的な話ではなく、精神的にある方向に向かっている時に、急に進路変更するのが自分は苦手だ。気持ちをまっすぐそちらへ向け、進み出してから進路変更をすると、曲がらなくてはならなくなる。重さのある物質が曲がる際、物質には遠心力が働く。遠心力の反対側へ自分で力を込めないと、飛ばされてしまうのだ。自分は力を込めるのは嫌いだし、飛ばされる恐怖に充てられるのはもっと嫌いなのである。

中学時代、日が暮れて家族が寝てから自分はよく自転車で旅に出ていた。ママチャリをしっかり灯火しつつ、ウォークマンの音量を大きめにし、リュックに少しのお金が入った財布を入れ、特に目的地もなく長野を彷徨っていた。土手や、狭すぎず広すぎない道がお気に入りだった。遠くでも近所と変わらないコンビニにより、菓子パンを買って現地で食べたりしていた。遠征が目的ではないので、急に飽きた時に帰ることがうんざりしない程度の距離まで行っては、遠回りしたりしながら家へ帰っていた。誰に教わったわけでもない、自分で考えた、自分を満たす手段だった。そこには自分しかおらず、そこにいる自分は確かに満足していた。むしろ、沢山の家があるのに自分しか夜の散歩をしていないことが不思議でさえあった。沢山並ぶ家を見ているときの印象はその頃から今でも変わらない。本当に全部の家に人が住んでいて、それぞれの人生にそれぞれの人生特有のなにかを持っているんだろうか?もしそうだとしたらなぜ夜はこんなにも静かなのだろうか?

道圧

自分はあてもないドライブをちょくちょくするのだが、同じ道はなるべく通りたくはない。短期間に何度も通れば通るほど、その道は摩擦力で熱くなり、通っている時に不快感を伴うことになる。通勤通学など、仕方なく何度も通る場合は乗り越えるべき困難として合理化できるかもわからないが、あてのない放浪で不快感を感じていては意味がわからない。

見知らぬ道を何度か通り自分の道にすることはそれなりに嬉しいが、なぜ何度も通ると嫌になってしまうのだろうか。安定感のある行動範囲が増えることは生物的にもいいことのように思えるのだが。

しかし過度の心配が必要ないこともまた事実としてある。あえてしばらく通らずに冷ましておくことで、その道はまた新鮮な道として復活するからである。

みかなみ2

山に対する信仰心についてはルネドーマルの類推の山を読んだことが裏付けになっている。類推の山を元に作られた映画がアレハンドロ・ホドロフスキーホーリーマウンテンであり、類推の山の帯には澁澤龍彦のコメントも載っていた。どちらも古今東西でも数少ない、自分にとって尊敬できる人物なので、類推の山は特別な小説である。

子供の頃から不思議で仕方なく、嘲笑さえしていた信仰という概念。おっさんになったら分かるようになるのかなぁと漠然とは思っていたが、確かにうっすら理解できてきている気がする。子供の頃はバカにしていて、だから絶対理解できないと思っていたのだが、バカにしながらでも信仰というのは出来るようだ。信仰に頼って生きるのと同じくらい、信仰に頼らずに生きていくことはバカバカしいことのように、最近は思える。何かしている人より何もしていない人の方が面白いなんてことはありえないんじゃないかと、最近は思う。

みかなみ

皆神山は自分の大好きな山だ。皆神山は周囲の山より低いのに、遠くから見ても異彩を放つ台形の山である。昔から現地の人のみにとどまらない勢いで信仰を集めていたようだ。当然のごとく皆神山には皆神神社があるのだ。

信仰を集めるには、信仰を集め続ける偶像としての説得力が不可欠だと思う。存在感の不思議ささえあれば、ストーリーは後からついてくる。そういう意味で皆神山は、多くの人の信仰心を満足させ続けた山であるといえる。皆神山のそういうところに、自分は父性のようなものを感じる。ついていきたくなるような、決して超えることのできない父の背中のような印象を受けるのだ。周りの山から浮きながら奇妙な魅力のある山であり続けた皆神山に、シンパシーのような感情を抱くのだ。

長野はもっと皆神山を推してもいいと思う。皆神山利権でもあるのだろうか。そういった生臭い利権みたいなのはあまり好きではないので、これからも皆神山は遠くから見て、自分の信仰心だけを注いでいきたいと思う。