ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

僕はいま女の子とデートをしている。坂道の商店街を、2人で上へ上へ登っているのだが、なかなか目的の店につかない。体力的に、俺はまだ行ける。彼女の様子を見てみると、彼女もまだ大丈夫そうだ。顔色ひとつ変わっていない。

この商店街は山の周りを螺旋状に巡っていて、奥が見えない。歩き進んでいくごとに新しい店がどんどん見えてくるのだ。次くるか、次こそくるかと思いながら歩くが、一向にお目当の店は現れない。僕はそろそろ疲れてきた。彼女に対して申し訳ない気持ちもどんどん湧いてくる。しかし彼女の顔を見ると、涼しい顔をしているのだ。はたから見たら、僕の方がヘトヘトだが、僕は気を使って彼女に言った。

「あの赤い店まで歩いてみても目当ての店が見えなかったら、諦めて他のお店に入ろっか」

彼女は言った。

「わたしはそれでもいいけど、いいの?こんなところまで来たのに」

 

赤い店の前まで来ても、目当ての店は現れなかった。しかし路地裏というか、脇道に繋がる新たな道が、新たに視界に入ってきた。僕はガッカリしながらも彼女に試しに言ってみた。

「あの道なんだろう。ちょっと行ってみない?」

彼女は僕以上にワクワクした様子で、快く受け入れてくれた。

批准ポエム

生まれることに批准した覚えもないし、生きていくことに批准した覚えもない。こんな社会システムに批准した覚えもないし、社会に評価を受けることに批准した覚えもない。

世の中は他人を納得させることにもっと腐心しなければならない。自分のやり方に批准しない人間を甘えだと言っていて成り立っていけばいいが、その姿勢がなにより甘えだと思う。黙らせることに腐心していたら繁栄なんてない。

社会の根本が対話のない暴力というのが全員の不満の根幹だと思う。もっと対話しなければならない。甘えを許さないと言うなら、甘えを許してはならない。言葉があるのだから、意味を考え、学び、使わなければならない。間違いを認め、間違いを正さなければならない。

時間をケチってはならない。人間1人の一生を基準で考えるなら今すぐ死ぬのが正解だ。より永い人類の繁栄を夢想しなければならない。現在の価値は、現在が続くことにより証明される。惰性で動くものはいつか止まる。推進力を得なければならない。

詭弁の値段

使わなくてもいいようなお金を浪費することは、一般的に贅沢といわれる。では使わなくてもいいような時間を使うことは、果たして贅沢なのだろうか。

 時間はお金では買えない。なんて、ありきたりな言葉で耳にすることも多い。そんな時間を無為に浪費することを贅沢なことに感じている人は実際にいるのではないかと思う。なぜそう思ったかといえば、自分自身にそういう節があると感じるからだ。

 お金より価値の高い時間の無駄使いをすることが一番の贅沢だなんて、まともに働いてまともに稼いで、「まとも」な贅沢も出来るような恵まれた人からしたらただの詭弁だと思うし、これが詭弁だという意見に対してはなんの反論もない。しかし自分が無意識レベルでそう思ってしまっている時点で、こんな風に考えている人が他に1人もいないなんてことは考えられない。

 無為に過ごす。ギリギリまで無為に過ごす。もちろんその先には何もない。その何も無さに、贅沢を感じることだって出来る。お金は使ったらなくなるが、使ったぶん他人が儲かる。時間は自分が自分のためだけに使える本当の贅沢品なのだ。これは詭弁だが、自分が時間を無為に過ごすことの支えには、今のところ十分なってくれている。

しねま

人生の昇華とはなんだろう。自己は自分の人生を鑑賞している、たいていの場合は唯一の観客だ。自分が退屈する展開には手を抜いてもいいんじゃないだろうか。 劇の終わりは単純に死だろうが、いつ終わってもいいようにしておくべきだからだ。終わり方は自分ではなかなか選べない。犬死にすることも考えて過ごさなければならない。目的をもって生きるというのはなんて無謀なことなんだろう。犬死にしてしまったらまったく意味が変わってきてしまうではないか。

 自分の人生は今の所輝いている。自分に理解できる展開で、主人公には共感できるし、間違ったことは何もしていない。周りに理解されないというありがちな設定だが、本人に悪意や取り返しの付かないような愚かさがないので、「俺だけはお前の気持ちを分かってやれるよ」という気持ちで鑑賞できる。これから新しい展開が訪れて、主人公の心境に変化があるかもわからないが、明日突然死んだとしても他の登場人物よりは訴えかけていたものがあったと言えるだろう。

 映画にはそれぞれ違う倫理観、時間の速さがある。すべての映画に共通するのは始まり、終わることだ。映画たちは人生は美しいと言ったり、馬鹿馬鹿しいと言ったり、悲しいと言ったりしている。れる

カツ丼譚

大学時代は1人暮らしで貧乏な生活をしていた。バイトをしたらバイトがメインになってしまうと思い込み、親からの仕送りに頼っていて、振り込まれる直前は本当にギリギリだった。そういう時は食費を出せないので納豆と卵ばかりを食べて糊口を凌いでいた。

 マッチ売りの少女は寒さに耐えかねてマッチを擦り、ご馳走などの幻想を見ていたが、自分が飢えた時に見た幻想はカツ丼だった。卵たっぷりのジューシーなカツ丼が、自分にとって恵まれた生活を象徴する食べ物だったのだ。

 特別にカツ丼が好きな食べ物だというわけではない。普段食堂などに行っても、カツ丼を頼んだりはしない。しかし味気ない同じような食べ物をずっと食べていると、スーパーなどで見かけるカツ丼は一際眩い輝きを放っているように見えた。

 今は実家にいてとりあえず食べるものには困らないが、もし再び貧乏な生活が始まったら、まとまった収入が入る度に自分はまずカツ丼を食べるのだろう。

しゅみ

音楽はヒップホップが好き。中学生の頃なんとなくTSUTAYAで借り出して色々聞いた。高校に入ってから洋楽のヒップホップも聞き始めた。ヒップホップを通じてネットに友達が出来たりして、のめりこんだ。昔ほどの熱心さはないけど今でも好きだし、音楽の趣味に1番影響あったのはヒップホップだ。

 漫画はガロ関係のものが好き。これも中学の頃なんとなくブックオフで見つけた「ねこぢる」が原因。今となっては色々読んだりするけど、源流になっているのはガロの漫画。「漫画に求めるもの」はガロで決定付けられた。

 小説はSFが好き。大学と地元の行き来の時が暇だったからその時、主に読んでいた。色々読んでいった結果1番難解なグレッグイーガンが好きになった。書いてあることのほとんどが理解できないが、その感覚が好きだった。日本の作家では澁澤龍彦に最も魅せられた。これ以上の人には出会えないだろうなと思う。

 映画は高校時代の友達の影響で色々見た。監督の趣味が色濃く出た映画が好きになった。芸術的といわれるような映画が一番楽しめて、監督はアレハンドロ・ホドロフスキー監督が一番好き。

 基本的に偏食で、アマゾンのレビューやなんかを自分一人で色々調べて「これは好きそう」と思わないと手を出さない。昔のような貪欲さは薄まってしまったが、色々なものに対して興味はある。

思い出頓挫

高校は美術部に入って地味に過ごした。一年浪人して秋田の大学に入ったが、何度も留年した末にやめた。今は毎日、実家の農業を手伝ったり、祖母の面倒を見たりしている。家にもう兄弟は一人もいない。

 彼女は一人できたことがある。すごく可愛くて良い子だったが、男を作られて変な感じになった。

 こうして人生で起きたことをまとめてみてわかったが、なんてしょうもないんだろう。これからも大したことは起きないと思うが、絶望とかしているわけでもないので自分で死んだりする予定もない。

 趣味は色々あるので、そのこともあれこれ書き残しておこうと思ったけど、自分の人生のあまりのしょうもなさにヘコんだのでまた気の向いた時にしようと思う。