ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

鬱陶しい

前提がおかしい文章を読むと目眩がする。現実の社会にせよツイッターみたいなバーチャルな社会にせよ、そこにどっぷり浸かるとどうしたって人間は自我が拡張してしまうように感じる。その社会の中でなにが自明かなんてその社会に属する人間にしか分からないのに、あたかもそれが前提であるかのように話す人というのは、もはや珍しくも何ともない。

あれやこれやと現時代的な概念について思いを巡らせて、ある意見に乗っかってみたりある意見を批判したりしているのを外から眺めるのはなんとも雲を掴むような気分だ。よくよく読んでみると実はある特定の社会を批判する内容だったりするとなおさら力が抜ける。

何かを押さえつけるような意見はそれ相応の反発があって当然だ。いろんなものを批判するいろんな文章を読んだことがあるが、総じて今ハッキリと言える自分の意見はそれだけだ。

まあ人間が何かを批判することも普遍的なことだとも思う。それならせめてそう思ったきっかけを書いておいてほしいが、必ずしもそうはいかないようだ。昔からある「最近の若者は〜」論も、それだけみると若者は反発するだろうが、もしそれがなんかのドキュメンタリーを見た結果抱いた意見なら若者も「ああ、影響されやすいやつなんだな」としか思わないんじゃないだろうか。

卒業の季節

無人の部屋でベッドに投げ捨てられたスマホがりん、りんと鳴る。

音に反応した持ち主の女は足早に寝室に戻ってくるとそれを手に取って内容を確かめる。

<ヤダ>

<こないで>

「もう!!!なんでよ!!!」

女は大声を上げ、スマホは再びベッドに投げ捨てられる。

すぐさま拾い直すとぶつぶつと文句を言いながらメッセージの主に電話をかける。

「なんで?なんでなの?いいじゃない!もう最後なんだから、ランドセル姿くらい見させてよ!」

「いや。だって。だって。周りの人に。なんて思われるか分かんないし。」

電話の相手は今にも泣き出しそうだ。まさか夜中に電話がかかってくるとは思わなかったのだろう。

「嫌だからね。あたし行くから。あんたわたしの事が恥ずかしいの?ねえ!そうなんでしょ。」

「ううん。違う。ごめんなさい。」

『うん』と言われる可能性も十分あると思っていた女は内心少し喜んだ。しかしそれとこれは別問題だ。心を鬼にして女は再びまくし立てる。

「でも来て欲しくないんでしょ?そんなのおかしいじゃないの!なんでわたしがそんなこと言われなきゃいけないのよ!あんたなんて産まなきゃよかったわよ!」

「ううん。ごめんなさい。でも。うん。」

「来て欲しくないっていうのは分かったわよ。泣かないでくれる?とにかくわたし行くからね。見てるだけだから安心しなさいよ!どうせあの人だってこないんでしょ?」

『泣くな』と言っている女だが、その目からは涙がボロボロと落ちている。

「あんた少しはあたしの気持ち考えたことあるの?小学校卒業すんのに、結局あたしの気持ち分かってくれたことなかったわね。とにかく、行くからね。あんたもちゃんと出なさいよ。」

「うん。ごめんなさい。わかった。」

「約束だからね。約束破ったら許さないんだからね!」

「うん。」

電話の相手はもうすっかり憔悴してしまったようだ。

「ううう。なんでなのよ。なんでそんなこと言うのよ。なんで来るななんて。何が嫌なのよ!」

「ううん。嫌じゃない。」

「そうでしょ?なんにも変なことしないわよ。あんたの記念の姿見て、終わり。わたしもう寝るから。あんたももう寝なさい。」

「はい。」

「じゃあね。」

「うん。おやすみなさい。」

粗製フィクション

これは性差の問題なのだろうか。わからないけど女が元彼とかのことを「◯◯な人だった」って言うのはとにかく信用できない。簡単な例えをいうと怒るような事を言って怒らせたら「クズだった」、弱音を吐いて優しくされたら「優しかった」とか、自分の行動に対する反応でその人を判断しているのを聞くとなんか違うんじゃないかと思ってしまう。

あと自分が見たい一面だけ見て判断するのも違う気がする。現実はフィクションと違うのに、フィクションのような男が存在すると思いたがってる人はそこそこ存在しているような気がする。

まあでも、それは男にもたくさんいたことに気付いた。フィクションに関しては男の方が酷いような気さえする。

安っぽいフィクションは人間をダメにする。これだけ粗製フィクションが氾濫している世の中はなかなかないのではないだろうか。表現者、著者、作者と一般人が中間に収束していっているのだろうか。粗製フィクションが溢れた世界における現実とは一体なんなんだろうか。粗製フィクションにどっぷり浸かり気味の自分にはさっぱり思い出せない。

虫苦手

女だからという理由のみで虫が苦手な人間が結構いるような気がする。女=虫嫌いという公式ありきで最初から嫌いな人間だ。女は虫が苦手だという知識からまず入って、はなから虫に挑んでいないのだ。

もしかしたら、幼い頃は苦手でもなかった可能性さえある。後知恵で「女の子って虫苦手なんだよ」と誰かに教えられ、苦手になろうと努力したか自己暗示に成功したかで苦手になったパターンだ。根拠は先入観のみだが、なんだかありそうな話に思える。

おばさんになったら虫が苦手じゃなくなるイメージもある。虫が苦手なおばさんもたしかに結構いるが、克服したおばさんもそこそこいるような気がする。そういうおばさんはきっと「虫苦手とか、もういいよそういうの」となって虫得意になったのだろう。虫を日々退治しなきゃいけない現実が目の前にあることが、虫が得意であることのリスクを上回ったパターンだ。

なにかが嫌いであることと、それを表明することは意味が違う。何かが嫌いである事実はそれを好きな人を敵に回しかねない。その点で虫は便利なのだろう。虫が好きな事と虫が嫌いな事が必ずしも対義語になっていないことが周知されているからだ。

孤独の希求

僕は孤独を求めているのかもしれない。

僕はこの家で最初に生まれてきた。自我が発生する前に既に妹がいた。それから少ししたら妹が、またとう少し経ったら弟も産まれた。弟の名前をつけたのは僕だ。その情景もハッキリと覚えている。

いつの時代も家族がいる人の場合、そのら家族と上手くいかない時期があるというのは珍しいことではないと思う。最近歳をとった僕は、そういう時期がある方がむしろ健全だとさえ思う。ちなみに僕にもそういう時期はあった。

はあ……。

僕は何を言いたいのだろうか。

どんな風に言ったら僕の言いたいこと、思ったことが書き留められるのだろうか。僕が今重要だと思うことを整理したい。両親が僕に甘かったということがその一つだ。僕を見捨てることをとうとうしなかったのだ。それで僕は、自分が孤独を希求しているように感じたのだが……。

孤独な状態から、一から人間関係を構築していく。僕はそういうことに憧れを抱く。

僕が僕のことを知らない頃から、僕のことを知っている人はたくさんいた。今思えば、そのたくさんの人たちは僕のことをなんとも思っていなかったんだろうけど、幼い僕にはそれがどうにも煩わしかった。

怠けて、不摂生をして、屑の振りをしてみても誰も僕を見捨ててはくれなかった。僕はやり方を間違えたってことだろう。自分自身を規定する方法を誤った。そういうことなんだろう。今となってはそれを認めざるをえない。しかし、だからといってこれから正規の方法で、社会に生きる人間としての自分の枠組みを構築するにはまだ条件が整っていない。

生まれつき僕にこびり付いていた汚れは、僕自身からも自分の姿を見えにくくしている。孤独な人は汚れもなく綺麗に見える。僕はひょっとしたら潔癖症なのかもしれない。

そこそこの数の人間からは、甘いことを言っているやつだと思われる気がする。お願いだからそうやって僕に汚れを増やさないでほしい。僕は最近イライラしている。

スピーチ

私のように世の中に対して厳しい視線を送る人間がなぜこのような体型をしているか。要するに、自分を律することができていないのではないかという疑問がごく一部の世論として存在するようなので、本日はそれについて考察しお答えしたいと思う。

考察という表現をするとあたかも私が理解できていなかったことだという印象を与えてしまうかもしれないが、このことは私の中では結論が出ている。しかるに当たり前のことすぎて逆に推敲したことがなかったというのが正確であろうか。私はなにか思想があって「こういう体型になろう」と思ったことはなく、世間に疑問を感じ、世の中の一員だった自分から脱し始めるにつれて、自然とこのように肥えふとり始めた。

結論から言うとだね。世間というのは私のノドにいたのだよ。世間を信用できなくなり懐疑的になった私は、自分の中にスパイのように存在する社会の存在を暴き出そうとしていた。いつものように夕食を食べて終えかけているときにそれは突然見つかった。ノドが私の意思を離れて「それ以上食べると体によくないぞ。塩分も糖分も油分も摂取しすぎなんじゃないか」と説教を垂れていることに気が付いたのだよ。

ここまで聞いて私の話に違和感を感じた人がいるのならこれからも幸せに暮らしていって欲しいと心から願う。なぜなら私は私の味方をかき集めて新たな小さい社会を築き上げることなんてこれっぽっちも願ってはいないからだ。私はここ何十年もの間、規則正しく三食とった日なんて一日もないということを断言できる。意地を張ってズラした食生活をしていたわけではない。私は私に合った生活というものに気付けたというだけなのだ。私が食べるという自体はあまり好きではないことも付け加えておこうと思う。食べることは戦いだ。私は社会に負けるわけにはいかないのだ。

堕落

約束や計画して行動できる人はすごいと思う。いついつまでになになにをしますという約束に、自分は異常なまでのプレッシャーを感じてしまう。責任感が強いといえば聞こえがいいが、プレッシャーに圧しつぶされて頓挫することもしょっちゅうあるのでいい特徴でないことはハッキリしている。

やっている最中がある程度楽しいことじゃないと全ての作業は苦痛でしかないように自分は感じる。たとえば運動部の走り込みなんかは自分のもっとも嫌いだったことだ。「自分は今なにをしているんだろう」「これを続けて一体なにになるんだろう」という憂慮がそれを続けている限り加速度的に増幅して、耐えきれない重圧を自分にかけてしまう。さっきの走り込みの例えで言うと、走る辛さは1、2、3と進み、10で辛くなり始めたとしたら10、11、12、13と増える走る辛さに対して自分の憂慮による重圧は1、2、4、8と倍々で増え、次の16ではもう走ることの辛さを追い抜いてしまうのだ。

そう考えてみると、どちらかというと自分には頭を使い続ける方が向いているのかもしれない。そういえば浪人した時の受験勉強が辛かったという記憶はほとんどない。そんなことも証左になっている気がする。