ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

虫苦手

女だからという理由のみで虫が苦手な人間が結構いるような気がする。女=虫嫌いという公式ありきで最初から嫌いな人間だ。女は虫が苦手だという知識からまず入って、はなから虫に挑んでいないのだ。

もしかしたら、幼い頃は苦手でもなかった可能性さえある。後知恵で「女の子って虫苦手なんだよ」と誰かに教えられ、苦手になろうと努力したか自己暗示に成功したかで苦手になったパターンだ。根拠は先入観のみだが、なんだかありそうな話に思える。

おばさんになったら虫が苦手じゃなくなるイメージもある。虫が苦手なおばさんもたしかに結構いるが、克服したおばさんもそこそこいるような気がする。そういうおばさんはきっと「虫苦手とか、もういいよそういうの」となって虫得意になったのだろう。虫を日々退治しなきゃいけない現実が目の前にあることが、虫が得意であることのリスクを上回ったパターンだ。

なにかが嫌いであることと、それを表明することは意味が違う。何かが嫌いである事実はそれを好きな人を敵に回しかねない。その点で虫は便利なのだろう。虫が好きな事と虫が嫌いな事が必ずしも対義語になっていないことが周知されているからだ。

孤独の希求

僕は孤独を求めているのかもしれない。

僕はこの家で最初に生まれてきた。自我が発生する前に既に妹がいた。それから少ししたら妹が、またとう少し経ったら弟も産まれた。弟の名前をつけたのは僕だ。その情景もハッキリと覚えている。

いつの時代も家族がいる人の場合、そのら家族と上手くいかない時期があるというのは珍しいことではないと思う。最近歳をとった僕は、そういう時期がある方がむしろ健全だとさえ思う。ちなみに僕にもそういう時期はあった。

はあ……。

僕は何を言いたいのだろうか。

どんな風に言ったら僕の言いたいこと、思ったことが書き留められるのだろうか。僕が今重要だと思うことを整理したい。両親が僕に甘かったということがその一つだ。僕を見捨てることをとうとうしなかったのだ。それで僕は、自分が孤独を希求しているように感じたのだが……。

孤独な状態から、一から人間関係を構築していく。僕はそういうことに憧れを抱く。

僕が僕のことを知らない頃から、僕のことを知っている人はたくさんいた。今思えば、そのたくさんの人たちは僕のことをなんとも思っていなかったんだろうけど、幼い僕にはそれがどうにも煩わしかった。

怠けて、不摂生をして、屑の振りをしてみても誰も僕を見捨ててはくれなかった。僕はやり方を間違えたってことだろう。自分自身を規定する方法を誤った。そういうことなんだろう。今となってはそれを認めざるをえない。しかし、だからといってこれから正規の方法で、社会に生きる人間としての自分の枠組みを構築するにはまだ条件が整っていない。

生まれつき僕にこびり付いていた汚れは、僕自身からも自分の姿を見えにくくしている。孤独な人は汚れもなく綺麗に見える。僕はひょっとしたら潔癖症なのかもしれない。

そこそこの数の人間からは、甘いことを言っているやつだと思われる気がする。お願いだからそうやって僕に汚れを増やさないでほしい。僕は最近イライラしている。

スピーチ

私のように世の中に対して厳しい視線を送る人間がなぜこのような体型をしているか。要するに、自分を律することができていないのではないかという疑問がごく一部の世論として存在するようなので、本日はそれについて考察しお答えしたいと思う。

考察という表現をするとあたかも私が理解できていなかったことだという印象を与えてしまうかもしれないが、このことは私の中では結論が出ている。しかるに当たり前のことすぎて逆に推敲したことがなかったというのが正確であろうか。私はなにか思想があって「こういう体型になろう」と思ったことはなく、世間に疑問を感じ、世の中の一員だった自分から脱し始めるにつれて、自然とこのように肥えふとり始めた。

結論から言うとだね。世間というのは私のノドにいたのだよ。世間を信用できなくなり懐疑的になった私は、自分の中にスパイのように存在する社会の存在を暴き出そうとしていた。いつものように夕食を食べて終えかけているときにそれは突然見つかった。ノドが私の意思を離れて「それ以上食べると体によくないぞ。塩分も糖分も油分も摂取しすぎなんじゃないか」と説教を垂れていることに気が付いたのだよ。

ここまで聞いて私の話に違和感を感じた人がいるのならこれからも幸せに暮らしていって欲しいと心から願う。なぜなら私は私の味方をかき集めて新たな小さい社会を築き上げることなんてこれっぽっちも願ってはいないからだ。私はここ何十年もの間、規則正しく三食とった日なんて一日もないということを断言できる。意地を張ってズラした食生活をしていたわけではない。私は私に合った生活というものに気付けたというだけなのだ。私が食べるという自体はあまり好きではないことも付け加えておこうと思う。食べることは戦いだ。私は社会に負けるわけにはいかないのだ。

堕落

約束や計画して行動できる人はすごいと思う。いついつまでになになにをしますという約束に、自分は異常なまでのプレッシャーを感じてしまう。責任感が強いといえば聞こえがいいが、プレッシャーに圧しつぶされて頓挫することもしょっちゅうあるのでいい特徴でないことはハッキリしている。

やっている最中がある程度楽しいことじゃないと全ての作業は苦痛でしかないように自分は感じる。たとえば運動部の走り込みなんかは自分のもっとも嫌いだったことだ。「自分は今なにをしているんだろう」「これを続けて一体なにになるんだろう」という憂慮がそれを続けている限り加速度的に増幅して、耐えきれない重圧を自分にかけてしまう。さっきの走り込みの例えで言うと、走る辛さは1、2、3と進み、10で辛くなり始めたとしたら10、11、12、13と増える走る辛さに対して自分の憂慮による重圧は1、2、4、8と倍々で増え、次の16ではもう走ることの辛さを追い抜いてしまうのだ。

そう考えてみると、どちらかというと自分には頭を使い続ける方が向いているのかもしれない。そういえば浪人した時の受験勉強が辛かったという記憶はほとんどない。そんなことも証左になっている気がする。

ディズニーランド

自分もディズニーランドに行きたがりたい。ディズニーランドが至高で、実生活はディズニーランドに行く為の我慢の期間みたいな価値観を持っている(ように見える)人を見ると羨ましくなる。まず自分から見るとディズニーランドなんて着ぐるみと機械とお土産で出来てて何が楽しいのか分からない。足疲れそうだし何するにも金かかりそうだしやっぱり何が楽しいのか分からない。というか、ほんとに何が楽しいのか分からない。何が楽しいんだろうか?理解できないけど、理解したいわけでもない。なぜかというと自分はディズニーランド好きだと思われたくはないからだ。なんかかっこ悪い。しかしディズニーランドには行きたがりたい。それはなぜだろうか。

ディズニーランドに行きたがってる人はそもそも、自分とは世界の見え方が最初から違う感じがする。世界の見え方が自分と一緒の人を見たこともないけど、ディズニーランドに行きたい人は如実に顕著に自分とは違う世界の人だと感じる。自分はディズニーランドに行きたいと思われたくはないが、ディズニーランドに行きたい人は大抵いい人だと思う。悪い人はそんなにいないような気がする。ディズニーランドに行きたい癖に悪い人なんていうのがいたら、そいつは逆に相当悪い奴だと思う。

話は逸れたが、他にもディズニーランドに行きたがるメリットはあると思う。まずディズニーランドに行けばなんとかなるというのがメリットだ。日頃うだつが上がらなかろうと、周りになめられてようと関係ない。ディズニーランドに行ける程度の収入さえ確保できればいいのだ。しかも働くにしても余計なモチベーションのブーストはいらない。なぜなら働けばディズニーランドに行けるのだから。そして友達も出来ることだろう。友達との話題に困ることもない。なぜならディズニーランドの話をすればいいのだから。その段階に達すればもう忙しくてディズニーランドに懐疑的になる暇もないのではないだろうか。そうなってしまえばもはやディズニーランドはただのディズニーランドではない。それは自分の生活を規定する堅牢な砦となるのだ。ディズニーランドはいいものだ。ディズニーランドに行きたがりたい。

サステイナブルに

日頃考えていることが何にもならず忘れられていくことがもったいなくてこの日記を書き始めたのに、最近10日置きくらいの更新になっていることに驚いた。近頃の自分は10日置きにものを考えているのだろうか。そんなはずはないと思う。

思考のタイプは一辺倒ではないのでいろんなフォーマットを考えてカテゴリで分けたりしてみたつもりだが、まだフォーマットが足りないのかもしれない。しかし自分の日常のなにげない思考を意味ある形で残す方法を考えるのは普通にかなり難しいことだと思う。そういう意味ではよくこれだけ無駄にカテゴリを分けたものだと自画自賛しそうにもなる。

日常でなにかものを考えるというのは、必ずといっていいほどきっかけになる出来事やニュースがあってのことだと思う。しかし自分はなるべくそのきっかけになったことの固有名詞はあまり使いたくない。それが気軽な更新を妨げる1番のきっかけのような気がする。時事ネタ的な固有名詞を使うと、なんとかく言っていることが陳腐になるような気がしてしまう強迫観念が自分の中にあるのだ。しかし「実際きっかけがあって考え始めたことなら、そのきっかけも書いといた方が意味はあるような気はする。」という想いもあって「じゃあ結論、陳腐だと思われたくないからやめとこう。」という処理が自分の中で行われているのではないだろうかと思う。

なんやかんや考えすぎて下手な縛りを作ると自分のせっかくの日常思考がまた記録されにくくなってしまうので、これからのことは特に決めずにおこうと思いました。置かれた10日の思考が後になってみるともったいなく感じたことが、今回の日記のきっかけです。これは別に固有名詞でもないし、書いても陳腐ではないと思う。

非医者の不養生

自分は自分で思っていた以上にガタが来ているのかもしれないと最近思う。高校生くらいの頃からそもそも健康診断が嫌いだった。なぜなら自分が健康なはずがないからだ。病院も嫌いだ。どうせ完治したってまた行かなきゃならなくなるからだ。医学の知識なんて1byteも持ってないから分からないが、今健康診断をしたらひょっとしたら「なんでこんなになるまで放っておいたんだ」と医者に言われるかもしれない。もしそんな風に医者を驚かすことができたなら、少しは今まで病院に行かずに過ごしてきた甲斐がある。しかし現段階ではまだそうなる確率はそんなに高くないと思う。医学の知識はないが、まあまあ生きているからだ。

もし医者の度肝を抜くことに成功して、「なんでこんなになるまで放っておいたんだ」と言われたらなんと答えようかさっきまで考えていた。あまり気を衒ってもイタいだけなので、「みんなこんな感じで生きていると思ってた」と飄々と答えるのがベストなのではないかと自分の中でひとまず答えが出た。