ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

壊れかけのラジオCM

ラジオを聴きながら作業をすることがよくある。ラジオを毎日繰り返し聞いていると、その日その日の内容よりも、合間の広告の内容の方が記憶に残っていく。それに比例して、最初は聞き流していたような細かいところが気になってくる。一度気になるとそのCMが流れるたびに今度はイライラが堆積していきそうだ。一度吐き出してスッキリしたいので、いくつか書き留めておこうと思う。

1つ目はローカルで、信濃毎日新聞のラジオCMだ。内容としては「新聞を読む子供の学力は読まない子供より高い」というものなのだが、「新聞とは学力を上げたくて読むものなのだろうか」と思ってしまう。地方紙で内容に自信がないのは分かるけど、だからといってそんな論点がズレたCMを垂れ流していたら余計読む人が減るような気がしてならない。印象に残るCMなので信濃毎日新聞の名前は覚えるが、自分はそのまま脳内のブラックリストに入れた。

2つ目は多分全国的なCMで、AARジャパン?みたいな難民を助けるNGO?のやつだ。まずいきなり「日本人の心は冷たくなんてない」と始まり、「難民助けないなんて日本人冷たいネ」と外人に言われて悲しかったから難民を助けたいから応援してくれ。という内容の補足がつく。それを聞くたびに自分は「お前は冷たいって言われたらなんでもするのか」と思ってしまう。難民を援助する活動は別に立派だとは思うが、そんな風に紹介されると「助けないからって『冷たい』なんて言ってくるやつを助ける必要ないんじゃないか」とまで思ってしまうので、自分とはあまり相性のよくないCMの1つだ。

こうして並べてみると自分は変な理屈で攻めてるCMが嫌いなようだ。バカみたいで聞いてて恥ずかしいようなCMの方が気になるって人や、単純にサウンドとして耳障りなCMが気になる人もいるみたいなので、それぞれ人によって相性のあるものなんだと思った。

公務員

そのお金はあげない方がいい。自分で稼げるようにしてあげた方がいいって。作業に対する報酬だということは分かるが、そうだとしたらこれっきりにした方がいいよ。俺が君だったらそうするね。それが彼のためだと思うからね。よそで稼ぐのだって、そこまで大変なことじゃない。君だってそれくらいのことは分かっているはずだよ。俺がこんなこと言って、君はお節介だって思うかもしれないけどね、俺は言わずに後悔するくらいなら言って後悔したいたちなんだよ。今まで彼本人の問題が大きいとばかり思っていたが、今回のことを聞いてやはり君にも問題があることに気付いたよ。今までぼんやりと感じていた違和感がスッキリしたような気持ちさ。

言わずに後悔するくらいなら言って後悔したいって言ったけどね、俺は両親がバタバタと死んじまってからそう思ったんだよ。もっとやってやれたことや、言っておきたかった事が山ほどあったからなぁってね。あっけなかったねえ。人間なんてコロッと逝っちまうんだ。君だってそうだし、彼だって例外じゃないんだよ。なんか君たちはそういうことから目をそらし続けているように見えるけど、俺はそれじゃあダメだって思っちまうんだよな。まあお節介といえばそれまでだけどさ。一回考えてみた方がいいぜ。そんな難しい話じゃないんだ。じゃあ俺は行くよ。またなんかあったら言ってくれな。ま、なんも言って来なくても俺から来るけどな。じゃ、そういうことで。お世話さん。ありがとう。

M沢K治

自分は宮沢賢治を一冊もまともに読んだことはないけど、本人的にも今の扱いは不本意なんじゃないだろうかと思う。小中高と教科書に載り、私生活においても立派な人みたいな感じで教わるが、果たして本人はそんな風に思われたかったのだろうか。自分はそうは思わない。

宮沢賢治が欲しているのは畏敬みたいなものだと自分は思う。今でもまあそんな扱いもされている気もするが、そんなレベルの畏敬ではない。ヤバい奴、とんでもない奴、どうかしてる奴、そっち方面の評価を受けたかったように思える。少なくともお母さんが子供に読み聞かせて、「あんたもこんな大人になりなさいよ」というようなもんではないだろう。そんなお母さんなんかよりも、宮沢賢治は自分みたいな人間に読んでもらい、評価してもらいたくて色々創作活動していたんだろうと思う。

しかし人間、擦り寄られると引いてしまうものである。媚びられるとなぜだか後回しにしたくなってくる。それがどういう心の作用なのかは今は考えないが、自分が宮沢賢治に一切手を出そうとも思わないのは、そういう理由からなんだろうと思う。

宮沢賢治について勝手なことを色々言ったが、これらは9割くらいは学校で習った知識に基づくいた、自分の曲解によるところが大部分だとは思う。しかし、もし万が一こんな感想を抱かせるような教育が恣意的になされているのだとしたら、それはそれで可哀想だから辞めてあげて欲しい。

今日見た夢

母親が車で崖から落下したらしい。けどまあ、仕方ないよね。だってつい数時間前にも俺が車借りようとしただけであんなに拒絶するんだもん。母親のくせに我が子をあんなに拒絶できるもんかね。でもまあいいよ。今はもうこの世にもいないんだし、わざわざ嫌な思い出を遡って腐すほどの恨みがあるかといえば、別にそういうわけでもないしね。まあ俺じゃなかったらもっと恨んでたかもしれないとは思ったりもするよ。けど俺には物事を合理化するっていう能力があるのでね。少なくともこの世においてはもうピーピー言われる心配がなくなったんだ。今では素直に可哀想だと思うことさえ可能だよ。きっと愛がもらえていない自覚が強かったんだろうね。ヒステリーと被害妄想。そう捉えたら世の中の母親、ひいては女性のステレオタイプなイメージにも近いし、とどのつまり母親も普通の女だったってことでいいんじゃないかな。

今ちょっといい思い出についても考えてみようと試みてみて驚いたんだけどこれがさ、ないんだよね。忘れてるだけかな。まあさすがにそうだと思うけど、一個も出てこないもんかね。でもうん。それも悪く受け止めるようなことではないね。一瞬でも「あれ?」と思ってしまった俺は、世に溢れる美化された母親像に倣ったあらぬ期待を抱いたことを恥ずべきだね。母親は人間なんだよ。俺と同じなんだ。そう思うだけでなんでも許せそうな気もするってもんさ。俺と同じなんだ。

母親の葬式で俺の兄弟は泣くんだろうか。世の中の母親の葬式で息子や娘は何%くらい泣くんだろうか?泣かない息子や娘がいることは分かるが、泣く息子や娘はいるのだろうか?俺の葬式なんてもんがあったとして、そこで泣くやつなんていないことは分かっている。母親もきっとそうだと信じたいものだ。だって俺の母親なんだから。俺は母親から生まれてきたんだから。

生きた

今日の午前中は仕事をサボった。朝起きた瞬間にクラッときて倒れたからだ。久しぶりに畳に頬ずりした。理由はなんだかよく分からないけど、午前中でも寝ればよくなるだろうと思って寝た。しかし寝てもそんなによくはならなかった。まあしかし実感がないというだけで本当はよくなってるのかもしれないので、仕事には行って終わらせてきた。結局大してよくなってはおらず、ずっと倒れそうだった。ずっと気合いを入れるためにデカビタが飲みたかった。ずっと飲みたかったので仕事が片付いてから飲んだ。この後もう1時間ちょっとは作業があるが、倒れるようなやつじゃないのでどうにかなりそうだ。デカビタは実際に体が欲している物だったようなので、それもよかった。飲みながらデカビタとは思えないほどの充足感はあったのだ。午前中寝てしまったので夜寝れるかが今は心配だ。体調なんてずっと良ければいいのに。死ぬときは死ぬ。生きるときは生きるでハッキリしてほしいものだ。

No気味No谷

日記は自分は他人から見て痛々しいくらいの方がいいと思う。なぜかは分からない。今そう思う。日記でまで他人の目を意識して、かっこいいかかっこ悪いかの賭けをするよりも、自分に対してかっこつけて自分で後で恥ずかしい方がまだいいように思える。それに自分が本当に考えていることっていうのを言葉にするというのは案外難しい。他人から見て痛々しいということは、内面の生々しさをそれだけ出せているということなのではないだろうかとも思ったりする。言って見れば、文章が不気味の谷に落っこちているのだ。ろくに推敲もせずにそこまで気持ち悪くできたら大したもんなんじゃないだろうか。煮詰めて煮詰めて不気味の谷を脱した名文をしたためられたとして、それは果たして誰の為になるというのだろう。それはさすがに格好つけすぎだ。そこまで自分は格好いいと思われたいとは思わない。文章を不気味の谷に突き落とすことを目的にするくらいが時間もそんなに取らなくていいのではないだろうか。それにそもそも自分は文章の磨き上げ方なんかよりも、文章の不気味の谷という発想の方を褒められたい。これは日記を書きながら自然と思いついたということもしっかりと忘れないように書き留めておきたい。

アウトロー

小学生の高学年か中学生くらいに達したときに少しは周りが見えてくると「自分が尊敬されるような人間ではなく、これからもシビアな評価しか受けない」ことに気がついた。世の中の人間たちは自分のことなんて見てないというがそれは厳密には間違いで、実際には見くびられているんだということに気がついた。それはそれで極端な考え方なんだけど、そういったときに羨ましくなるのが、そういう原則的で平等な評価という恐ろしいものを受けない人間のことだ。たとえばそれは障害者であり、同性愛者であり、精神病者である。実際のそういう人を見て羨ましくなったわけではなく、「そうだったらある程度仕方ないなって思われただろうに」という決めつけによる憧れを抱いたのだ。自分が何か出来なかったとしても「努力が足りない」とか「才能がない」とか言われないような気がしたのだ。

そう思った時に自分はまた、同性愛者と障害者をやりきるのは無理な感じがした。なので消去法で精神病っぽくなってみようとした。気が狂った人間がしそうなことをイメージし、1人で色々実行に移してみたのだ。それは自分が中学を不登校しているときだった。

うずくまって喚いてみたり、紙やノートに精神病っぽいことを羅列してみたり、部屋をめちゃめちゃにしてみたりしたのだが、どうにもしっくりこなかった。なんかやってることが薄ら寒いような感じがしたのだ。やっている時は手を抜かず、照れや恥ずかしさを振り払ってやりきっていたはずなのにである。結果的に当時の自分は「世間的に精神病の認識を受けている人間は、この難しい役の演技を洗練させて説得力を持たせるだけの才能のある人」であるような気がした。「何をしている人間が精神病に見えるか」を的確に知っている人のようがしたのだ。結局のところ自分は努力や才能が不足していて、精神病としての評価を受けることもできない人間である現実に直面し、さほど深くではないが落胆した。