ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

オーロラ

うちの周りに山しかないから、地平線とか水平線とか蜃気楼とかいうワードが自然には出てこない。聞くと非現実的で気取った言葉に感じてしまう。大袈裟で安直なキレイなもの、まるでオーロラとかのような表現に思えてしまう。でも実際はさほど大仰な表現というわけでもないんだろうか。海が近くにあれば水平線とかも、現実的な表現として自然に出てくるようになったのだろうか。

水平線はやっぱりでも大袈裟だと思う。地球の輪郭みたいなもんじゃないか。そんな惑星規模の表現が当てはまるような状況なんて、そうそうある気がしない。今はしないが、でもこんな風に水平線をオモチャみたいに扱っていたら、そのうち自分にも手の届く表現になるような気がする。水平線が自分の中で候補に上がったときに、「あー、はいはい水平線ね」という次元で水平線を扱えるような気がしてきた。なのでこれからは隙があれば、水平線をオモチャにして扱っていきたいと思った。

掌に太陽

今日はついに150度まで平気になった。人間の身体というものは実によくできている。こうして訓練することで、耐えられる熱の量は少しずつだが上昇していくのだ。私は来たる刻に備え、最大限の温度で耐えられるように掌を鍛え続け、ついにここまで来た。こういった訓練において一番の心得は、無理は禁物だということだろう。無理をして負傷してしまったら、備えるどころか自分で息の根を留めることになってしまう。ことは慎重に進めるに限る。日進月歩だ。私がこうして最大の記録を達成したことがその証左である。この調子で進めば確実に人類で一番頑丈な掌になるだろう。たかが掌と思う人がいるかもしれないが、そのような人間は得てして何も成し遂げていないものだ。気にするに値はしない。見た目には普通の掌と変わりないが、常人にはない機能を兼ね備えている。その事実を掌を見ながら感じるだけでも私ほ無上のカタルシスを感じる。例え人体の限界温度に漸近していっているにせよ、耐熱性は確実に上がっていっているのだ。その事実が私の目に映る限り、このライフワークを止める訳にはいかない。この機能はもしかしたら一生役に立たないかもしれないということは最初から判っている。しかし、もし役に立つときが訪れた場合に生き残るのは私のみだ。それもまた確実なことであろう。そんな事実を掌を眺めつつ感じるだけで、明日も頑張ろうという決意が私の中にふつふつと湧いてくるのだ。

マイヤミ

「人間の闇」だとか「人間の苦悩」「人間の矛盾」みたいなものを描いた作品がたまにありがたがられてるけど、本当にくだらないと思う。そんなものに感情移入するのは自分の人生をしょうもないものだと決めつけることに他ならず、ありもしない傷をわざわざ作って舐め合う、信じられないほど後ろ向きな姿勢で気持ち悪く感じる。

作品を通じて現実を辛いものとして描こうが美しいものとして描こうが現実なんて微動だにしないし、一瞬動いたとしてもそんなものが定着するはずはないと思う。そういったブームは言い換えればただの一発屋で、その時代の人間がどのくらいバカだったかの指標程度にしかならない。

現実はあるとき突然辛いものになったりなんてしない。気付くか気付かないか程度の問題でしかないと思う。人間の闇とかが好きな人間の思考回路は全く分からないけど、現段階の自分から見ると凄くバカに見えてしまう。胸を抉られるような感覚が好きなのだろうか。自殺の時にドーパミンかなんかが出ると聞いたことがあるが、それと同じような原理なのだろうか。そうだとしたらバカというか変態に感じてしまうが、ただバカなよりは面白くていいと思う。

カルママン

主役が現れれば脇役になれるのに。主役を張れる役者を見たことがない。俺の生活圏内に現れたことがない。自分は諸事情で主役を張るには条件が足りてないけど、主役がいないから仕方なくじたばたしたりしている。主役さえ現れれば心置き無く脇に徹することができる。主役の条件が必ずしもイケメンというわけではないことは短い人生でも理解しているが、イケメンなら主役ぶりやすいことも死ぬほど実感している。「見てくれなんて気にしなきゃいいのに」という感じで接してくるのは大抵美男美女だ。イケメン以外で主役を張るなら恥知らずなバイタリティが必要になる。そういうものは大抵は内在的なものでも外在的なものでも、出生に起因しているように思える。それは先祖から意思の有無に関わらず受け継がれてきた性質であり、それを業と言い換えることもできると思う。

俺は「自分を主役と思い込む能力」も無ければ「主役とかじゃない個人として生きる能力」も欠如しているんじゃないかと思う時がある。俺が楽に力をそれなりに抜いて生きていくには、やはり強烈な主役の出現が望ましい。

鋭角

次のコーナーはなんであんなにも鋭角なんだろう。

順当に行けば相似になってるはずだったってのに。

出てきた地中に鳥たちがなんか集まってきている。

こっちの仕事はまだまだこれから大変だってのに。

そもそもどうしてこの畑こんな変な形なんだ。

正方形か長方形なら簡単だったのに。

右側の車輪止めれば右に、左を止めれば左に曲がる。

それだけをずっと繰り返したのに次のコーナーはあんなに鋭角。

GO

業というのはすごい概念だと思う。

子供に対して「悪いことをすると来世で悪いことがあるからやめろ」と戒めている事はなんとなく知っていたし、直感的にも分かりやすい。しかし業のメッセージはそれだけではないことに、自分は最近になってようやく気がついた。それは業という概念が、大人に対して「持って生まれた人生のポテンシャルが違うんだから仕方ないよ」と慰めてくれている側面だ。

人間努力で結構なことがどうにでもなることは否定しないが、どうにかなっている人間を目の当たりにすることは少ない。周りを見ても大抵、想定内の振り幅で幸せになったり不幸になったり、能力を発揮したり挫折したりしている。その振り幅の規定が業であり、自分のように大した業のない人間が業のたくさんある人を見ると「難儀な人だなあ」と思うに留まる。

それだけにやっぱり業から解き放たれたように(大抵作品を介して)見える人間を見ると、果てしなく羨ましく見える。そういう人は作品の中に業から解き放たれた自分を創造しているに過ぎないのかもしれないが、そうだとしてもその能力があることが羨ましく思えてくる。ちっちゃい業の中で充足感見出せない点を考えれば、自分も人一倍に業が深いことは確かだと思う。

書きながら寝たやつ

世の中には生活ができなきゃできないことが多すぎると思う。自分は生活するのが苦手なので、不自由な思いをしている。それでも時代的に仕方ないかなとも思っているけど、そろそろ生活なんて苦手でももっと伸び伸びと暮らしていけてもいいとも思う。何をするにも生活が上手くできることに越したことはないというのが現代だ。自分は生活が苦手ということで基本的に自信はないが、生活が苦手なのにそのまま生きている点においては自信も多少はある。自分がデリケートな生き物だったら、すぐに死んでいると思う。

自分は生活が苦手だと思う理由は、理想の生活が存在しないことが1つあると思う。例えば「あの映画が観たい」とか「あそこの何かを食べてみたい」とかいう目標みたいなものがあっても、その間のことはどうでもいい。土の上でも別にいいし、埃をかぶってても構わない。理想がわからないのだ。

その生活を維持するためにその生活を続けるというのは、どういう理屈なんだろうか。