ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

昼の夢

のたうっている黒人に袋小路に追い詰められた。黒人は音楽を流し続けている。音楽と緊張感に満たされている空間はさながらミュージックビデオのワンシーンのようだ。俺はどうにか塀をよじ登ったが、このままやりすごすには幅が20cmくらいしかない塀を渡らなければならない。黒人は相変わらず不気味にのたうっている。俺は意を決して塀に一歩踏み出した。

すると黒人がいる通路の袋小路は深い谷底になり黒人はのたうったまま下に落ちていった。底の渓流に落ちると、水飛沫の代わりに夜空が飛び散り、カラスが舞った。俺はそのまま崖の上を進んでいく。進む先の方に森が見えるのだ。とりあえずそこにいって落ち着きたい。

森が近づくにつれ、木々が樫であることを判別できる程度に冷静にもなってきた。来た道を振り返ってみると、ロイ・バッティが谷底を見つめている。俺はギクリとして、動きを止め、様子を見ることにした。しばらくするとロイ・バッティは谷底に身を投げ、夜空と散った。俺はまた急いで森に向かった。

樫の森は不気味な雰囲気で、ずっと気がつかなかったが、音楽も鳴り止んでいないではないか。樫をさらによく見ると夥しい蟻が這っていて、どんとん樫を食い荒らしている。俺は歩みを進めているのだけど、さっき見ていた樫の森が幻想だったかのように、蟻によって樫の森は少しずつ消えていっているのが分かる。

歩みを進めるにつれて、蟻のせいで樫の森の体積は減っているはずだ。それと同時に空は拓けて行くはずなのに、歩みを進めるごとに辺りは暗くなって行く。もしかしたら蟻やカラスが夜になっていっているのかもしれない。

YUME

明け方の道を一人で帰っていた。どこから帰っているのかも知らないけど、つい数分前までさ怒りか悲しみかによって、日常ではなかなかないくらいに興奮していたことは体が覚えていた。疲れ果ててすっかり燃えさしのようになった俺は、一人でトボトボと歩いて帰っていた。

太陽は出ていなかったがあたりは明るくなってきていて、全体的に水色っぽかった。立派な四車線の国道の、脇の歩道を歩いていたのだが、車とは一回もすれ違わなかった。

昔からあるデカいスーパーにさしかかったとき、スーパーの脇の花壇の花が全部干からびてカリカリになっていることに気がついた。見渡すと水やり用の長いホースが端っこにあったので、俺は水をくれてやりながら帰った。

端まで満遍なく水をやったら、当たり前だがホースは伸びきってしまった。自分はやさぐれていたので、ホースをそのままにしてまた帰り始めた。

ジェットストリーム

車で放浪する時の楽しみの1つが音楽だ。自分はアンダーグラウンドヒップホップを好んで聴くのだけど、ブラックミュージックの性として、自然と音量を大きくしていってしまう。さっきちょうど放浪をしていたんだけど、その時も気付いたらだいぶ大きな音量になっていた。土手みたいな道を走っていたのでなんとなく窓を開けてみたのだが、その瞬間いつもと違う新鮮な感覚があった。窓を閉め切っているときは、スピーカーから出る大きな音が車内にこもって充満しているような感覚がなのだが、窓を開けたら正面のスピーカーから出た音が窓から出て行く感覚を感じることができたのだ。そのとき鑑賞している自分は、流れる音楽の奔流に打たれる石ころになったような感覚に陥った。言ってみれば流れてくる音による心地よい抵抗に身を委ねる気分だった。新鮮で心地のいい音楽体験だったのだが、周りに民家があるときに試さないように気をつけたい。

Gallows Laugh

さっきテレフォン人生相談を聞いていて知ったのだが「絞首台の笑い」という言葉があるらしい。自分の人生の悲しさから目を逸らして笑うようなことを言うらしい。

ニュアンス的に良くないこと扱いだったので、要するに絞首台で笑うことは人間的に不自然で良くないことであり、そういう人のことを表現する言葉らしい。悲しかったり辛い時は泣いたり悲しい顔をすべきということなんだろう。

我が身を振り返ってみると自分の笑いもそのほとんどが絞首台の笑いの気がしてくる。自分の身近な人の笑いのほとんどもそんな感じのような気さえもしてくる。自分の住んでいる環境には絞首台がすごく多いみたいだ。

ちなみに「絞首台の笑い」を笠に着て説教していた先生はずっと「死刑台の笑い」と言っていた。検索してその間違いに気付いたとき、「偉そうにしてた癖にバカなヤツ」と思って笑いが漏れたのだが、それも「絞首台の笑い」にあたるのだろうか。

Tautolosophy

「普通」という概念に疑問を抱く人は、疑問を抱かない自分にとってすごく普通の人間だ。

自分は中学生で不登校だった頃、家でネットをひたすら見ている日とかがザラにあったが、そんな自分のことを普通だとは思っていなかった。とりたてて切羽詰まった思いを抱えていたわけではないが、ネット上にいる頭の良さそうな人たちなら自分のモヤモヤみたいな感じの正体も知っているんじゃないかと思い、開かれたチャットルームを徘徊してみたりもしていた。自分は病気ではないという確信はあったのでメンヘルのチャットなどには行かず、当時の自分は哲学のチャットルームに目を付けた。様子見で入ってみると、そこでは常連みたいな人たちが4、5人、難しい言葉で会話している感じだった。中学生の自分は「どうせ匿名だから」と、臆面もなく会話に割り込み「どうしたら普通になれるか」といきなり聞いてみた。その時の常連の一人の返事が「普通とは何か」だったのである。自分は深く考えず「異常じゃないこと」と答えたと思う。常連の返事は「異常とは何か」だった。今思えばまあまあ親切な返事だとは思うが、当時の自分は率直に言ってガッカリした。その後は具体的には覚えていないが、あれこれ禅問答を繰り返し、最終的にちょっとそこの人たちと仲良くなったりもして終わったと思う。少なくともそこで自分のモヤモヤした感じが晴れることはなかった。

それ以来、「普通」に疑問を呈する人を見るたびに「もういいよ」という気持ちになる。「普通ってのは「普通とは何か」って思うような事だよ」と、一瞬言いたくなるが、それもなんだか哲学チャットの常連の言い草っぽいので、心にいつも留めている。それによってまた自分の心のモヤモヤした感じが蓄積されないことだけ祈りたい。

インザ夢

俺はついに自分のやるべきことを見つけた。小屋を建てるのだ。裏山の踊り場。ひっそりと地面から剥き出しになったこの世界の肉。これはおそらく俺自身であり、これを俺自身で祀るのだ。土が肉を覆っていると凡人は思うだろうが、この場合土が肉に覆われていると思った方が適切だろう。俺はそれが剥き出しになってしまっている所を、散歩していたら偶然見つけてしまったのだ。土から突出してしまい、雨風に晒されてカチカチになっているが、俺には分かる。これは俺自身であり、世界の正体なのだ。見つけてしまったからには雨曝しにはしておけない。かと言って土を被せてあるべき状態に戻すというのもなにやら忍びない。小屋など作ったこともないが、冬が来てここに来れなくなる前に設えなければならない。俺のことを怠け者だと笑う村のやつらは、俺が急にあくせく動き出して驚くだろうな。しかし怠け者だと勝手に決めつけるアホにはこの高尚な行いは理解できぬだろう。俺は自分のやるべきことを理解していて、この好機がいずれ訪れることもきっと心のどこかで察知していたのだ。それにしても、心のなんと晴れ渡ったことであろうか。心を覆う肉、それを覆う世界、それはまた肉で覆われていて、その更に外側もまた俺だったとは。そう思うと尚更、この世界というのは不思議なものだ。俺は世界のおおまかな正体を知れただけで、世界の構造や原理は何1つ理解できていないではないか。しかしそれはまた、この世界の複雑さが俺自身の複雑さということでもある。それを理解することがこんなに気分が晴れ渡ることだなんて、村のやつらには一生かかっても到底理解の及ばないことなんだろうな。そう思うとやはり気分は悪くなく、村に帰る俺の顔は自然とほころぶのであった。

人生ゲーム

人生には人ごとに強さがあると思う。それはなにかというと、強い方が勝つのである。

人生には人ごとに濃さがあると思う。それは濃い方が生きている自覚がある。

自分は最弱で、最薄だと思う。それは多分弱くあろう、薄くあろうとしてきたからだと思う。

なぜそういうことを思い始めたのかというと、他人の人生が強く、濃く見えるからである。

なぜ弱く、薄くしようとしてきたのかと思うかというと、そっちの方が自然な感じがするからである。なぜそう思い始めたのかというと、強く、濃くあろうとしている人たちが無理しているようにしか見えないからである。

実際どうなのかは知らない。考えようとも思わない。なぜかというと、それが弱く薄く生きる上での一番大切なコツだからである。それはなにかといえば、他人に流されないことである。他人に流されないこととはなにかといえば、他人を納得させようと思わないことである。

自分で(いま可能な限り)客観的にこの文章を見返してどう思うかといえば、現代の雨ニモマケズだと思う。なぜかというと、現代を生きるちょっと反骨的で高尚な心構えという印象を受けたからである。