ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

記憶

思い出した方がアレなことはアレにとってアレである。誰にとってアレなのか。未来のアレか。それとも他人なのか。アレは意識的にアレしているのか、それともアレか。無意識にアレしているにせよ、意図せずアレすることはアレだ。それをアレしないようにアレしておくことによって、アレをアレすることは可能である。人はそれをアレと表現したりする。俺はアレを捨てながらアレしているが、止めきれない部分は当然あり、当時のアレをアレし続けることは不可能だと思う。俺のアレしているアレは、今のアレとアレしたアレであり、当時のアレのもっともアレなアレではなく、世の中のアレとアレしたアレがアレしているんじゃないだろうかと、ふと思った。そうなると俺はどこまでアレをアレしつつアレするか、世の中のアレにアレしてアレしていくかをアレしなければならないアレに到達しているのかもしれない。その答えはアレしなくてもアレだが、アレする段階に来ていることをアレしたことにアレをアレせざるを得ないことはアレである。

陳腐

雪の中、人が全く通ってないから雪が踏み固められてもないような歩道で棒立ちして空を見上げている老人がいた。自分の祖父も死ぬ2年前くらいからはそんなような雰囲気だったので、似たものを感じた。老人は手ぶらだったが、身なりからして浮浪者のような感じではなく、面倒をみてくれる人もいそうな雰囲気だった。浮浪者にもその人が歩んできた人生はあったとは思うが、俺には想像もつかない。その点その老人はそれなりの人生を歩んできて、親族や昔の職場の仲間なんかが彼がただの道で上の空の老人じゃないことを知っているのだろうと思う。しかし俺の目にはただのぼーっとした老人にしか見えないし、それが悪いことだとか悲しいこと、情けないことだとは思わない。俺もあんな感じになるんじゃないかと思う。なれたら上等だとも思う。しかしなりたくないとも思う。しかしなりたくないと思っても、そうならざるを得なくなるんじゃないかとも思う。もしそうなったとしたら、それはそれで上等なんじゃないかとも思う。

ゆーめ

道に迷ってしまった。車でちょっと知らない道に入ったら、どんどん幅員が狭くなっていって、引き返すのも面倒くさいくらいに狭くなってしまった。広い道へ出ようとするほど狭くなっていく印象を受けた。まるでもがくほど苦しくなっていくアレのようだ。道が狭くなるにつれて整備も行き届いてない道になっていき、民家と民家の間が狭くなるにつれて塀も増え、下手な運転をしようものなら塀のやすりで車が粉になってしまう。

整備が行き届いていないというのはなにも路面や区画の問題だけでなく、塀の影で溶けずに残った雪もまた俺の恐怖心を煽る。俺の運転が完璧でも、雪のせいで車に傷がつく可能性があるということだ。とにかく早く広い道に出なければならない。

そうやって焦りながらノロノロ進んでいくと少し民家が減ってスッキリしてきた。見渡した感じ広い道もなんとなくありそうだ。標識なんかも増えてきた気がする。この狭いカーブを曲がりきれば、少しはマシな道に出そうなんじゃないか。なかなか神経すり減る感じの曲がり道だが、集中力を途切れさせなければ曲がりきれないことはないだろう。

俺が歯を食いしばりながら道を曲がっている途中で、下校途中の男女が向こう側から歩いてきた。女の子は素朴で可愛く、男の子は真面目そうだ。クソ田舎に生まれた縁で仲良くなって、いつか結婚したりするのだろうか。「こいつらに死んで欲しいと思う俺、死なないかなあ。」と心で思いながら車を停め、俺は二人を通らせてあげた。

 

似た錯覚

俺は自分がいろんな錯覚をしながら生きていることにようやく気がついた。自分が錯覚をしていないという錯覚から解き放たれた。錯覚は能動的で、得てして都合がよく、一生錯覚だと思わなければ錯覚ですらない。錯覚だと言ってしまえばなんでも錯覚だと言えるが、それをあまりやりすぎると病人になる。みんなと同じくらいの錯覚にピントを合わせることが社会的な生き物には大切な能力だと思う。みんながどんな錯覚をしているのか知り、取り入れたり真似をすることで社会に溶け込めるんじゃないかと思う。

おばあちゃんの友達が新興宗教の熱心な信者になって、おばあちゃんの仕事の手伝いをしてる時も宗教の集会に頻繁に誘ってきていたらしい。おばあちゃんはその度に、「忙しくて私は行けないから、教えだけ働きながら聞かせてちょうだい」と答えたらしい。いくら聞いても納得できないから宗教には入らなかったそうだ。納得できる教えだったら入っていたのだろうか。おばあちゃんを納得させる教えは存在していたのだろうか。

夢考

夢から醒めた瞬間、起きて理性と夢が混濁している状態のとき、夢という物の存在意義が明確に分かった日があった。人間がなぜ夢を見るか、夢と人間がどんな影響を及ぼしあっているか、それに加えて人間が夢に関してどんな勘違いをしているかまでハッキリ分かったのである。人間目線で夢を理解したのではなく、夢側の目線で人間の認識が見えたのだ。しかし人間が夢のことを考える時に人間目線でしか見れないように、夢の目線に完全に立ってしまうと、人間の頃の夢に対する印象が実感を失ってしまっていた。

 目が醒めたときに夢の目線は分からなくなっていて、夢の時に考えていたこともなんにもわからなくなってしまった。人間の目線に戻って思うことは、夢になったからって夢のことが理解できるもんだろうかということだった。犬の事を本当に理解しようと思って完全に犬になっても、人間に対して思うことはあるだろうけど、犬のことを理解できてるかというと、それはいないだろうということだった。

贅沢

「贅沢を言えば」という言い回しがある。普段はある程度で満足しているが、欲を言えば…という意味だと思う。贅沢は持続性をもつ場合と、刹那的な場合があると思う。持続性のある贅沢というのは、想像しにくいものだと思う。なぜかというと、贅沢な暮らしをしている人がどんな風に生活感を保っているのか、贅沢を言えない人には想像ができないからである。もともと贅沢な暮らしをしていた人にも人間ならば悩みがあるはずだ。贅沢を言えない、持続性をもつ贅沢が欲しい人が贅沢な暮らしを手にした場合、立たされるのはその立場だと思う。新たな悩みのスタート地点に立つことを望んでいるのだ。贅沢な悩みという言葉が存在することからもそのことは分かる。

 自分の最近の考え事は、贅沢を言えない人が普段満足している「ある程度」が分からないことだ。ということは自分のその悩みを解決した先には、贅沢な悩みが言いたいというものがある可能性もある。それともこの自分の悩み自体が贅沢な悩みで、解消された後、次に目指すべき状態なんじゃないだろうかとも思う。

快楽のリスク

コーヒーを飲みたくなる衝動は突然だ。眠い時よりもむしろ目が覚めてノリノリの時に飲みたくなるような気もする。したがって深夜にコーヒーが飲みたくなることもしばしばある。しかし深夜のコーヒーは背徳感を伴うものだ。明日までに仕上げなければいけない仕事など、今の自分には存在し得ない。自分の一時の快楽のために、その後のあるべき時間の睡眠を代償にする行為でしかないのだ。しかしそういう時に飲むコーヒーは期待を裏切らない。「あー、やっぱりやめておけばよかった」とはならないものなのだ。それが分かっているだけに、この誘惑は大きいり

 自分は缶のブラックのコーヒーを飲む時、飲み干すとき、九割飲んで残り一割を一思いに飲むとき、「この一口を飲んだら眠れなくなるぞ。今までの分はセーフだが、これ飲んじゃったら眠れなくなるぞ。」と思う時がしばしばある。一人でふざけているわけではなく、自然とそういう気がしてくるのだ。毎回結局飲み干すわけだが、自分の罪を小さくするためのおまじないのようなものなんじゃないだろうか。「飲み始めた自分」の罪を見ないフリして、「残りを飲んじゃった自分」に全てをなすりつけている行為なんじゃないだろうか。そんな風に、たった今コーヒーの缶を捨てながら思った。