ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

レビューのレビュー

今の世の中、なにを取ってもそれに対する反応やコメントにあふれている。そのコメントがどの程度の深みを持っているかに関わらず、それは大抵の場合恒久的にウェブ上に残る。残るからにはそれを見た人の反応も無限に考えられるので、せめて自分だけでも深さを把握した上でウェブ上に残すようにしたい。

物事の捉え方にはその深さによって「印象」「感想」「考察」に分類できると思う。ツイッターのツイート1つを例にとると、「印象」は回って来たツイートに対する第一印象。「感想」はそのツイートをした人の他のツイートを見てある程度その人の人格を把握した上での、ある程度練られた自分の考え。「考察」は世相や時代背景、そのツイートが生まれた経緯や話題になった理由など、自分に考えうる全てを総合したその時点における最終的な自分の考え。おおまかに考えてもこんな風に分類ができると思う。

ツイートの場合は一例であり、自分が何かを感じてそれを言葉にするときならどんな時にでも当てはまる概念ではないかと思う。たとえば他人のコメントが印象なのに、考察だと思ってしまうとアプローチの時点で齟齬が生じてしまうことになる。

自分の日記の記事は正直、ほとんどが印象でこれもそうだと思う。一度湧いては少し塾考すると消えてしまうような気持ちを、消える前に書き留めておきたいといつも思っているからである。この日記が何に対する印象なのかと言えば、ある動画に対する評価の高いコメントが印象だった印象を受けたからである。「こんな浅い意見が、さも普遍的な考察であるかのように扱われている」という印象に対する印象が、この記事として発露している形となっている。

不文律

夢を持ち、そこに向かって生きていくのが理想的なような世の中に違和感を感じる。夢を持つ権利は平等に与えられているが、夢の持ちやすさは生まれた環境に左右されすぎている気がするからだ。

自分は百姓の家に生まれたので、もし自分が子供の頃に「将来農家になりたい」という夢を持っていたとしたらだいぶ人生が滞りなく進んでいたと思う。しかし学校では条件がフラットであるかのように将来設計について教える。全ての子供は平等なところからスタートするのだと。

本当の世の中のことをもっと教えた方がいいと思う。大義名分や理想もいいけど、現実と乖離した綺麗事を教えすぎだと思う。今の学校でどんな教育がされているのか知らないけど、今まで自分は「学校に通ってよかった」と思ったことはない。自分が育った時代は大人が本当に最悪だったとも思う。自分たちの世代が進めてきたゆとり教育を受けた世代を、同じ世代の人間が批判しているのだけを見ても異常な精神性だと思う。

世の中にはどれだけの不文律が存在しているのだろうか。学校で教えられた事を間に受ける純粋な子供があとあと苦労するという不文律も、現代社会には確実に存在しているだろうと思う。

アラナイ

相変わらず祖母の送迎を担当しているのだが、どうやら祖母はずっとガソリンの使用量が気になっていたらしい。長方形の右下から左上に連れて行っているのだが、祖母的には左下を通るルートの方が近く感じるらしい。おそらく通りが大きくて通行量も多いから、なんとなくそう感じるのだろう。実際の距離はほとんど変わらないし、信号が多いので自分はあまり好きではないのだが。

自分は右上を経由するのどかな田舎道ルートの方が祖母感が強いのでずっとそっちを通っていた。しかし祖母を乗せてそこを通るたびに、祖母はガソリンを無駄に使っているということでストレスを感じていたのである。

これからは祖母の思う最短ルートで行こうと思う。自分が少し回り道をして変わった景色を見せてあげようと思っている時も、祖母はガソリン代のことが気になって気が気ではなかったのだろう。なんでこんな道を通るんだと、やきもきしていたのだろう。

妄想文化

・エモーショナル手話

音楽に乗せ、情感豊かに手話を表現するパフォーマンス。見にくる客の過半数は手話を理解していないが、「意味が込められている」という裏付けが含まれているという深みを持った舞踏のような雰囲気に圧倒されている。有名なアメリカのアーティストのミュージックビデオに採用され、一般的な認知度が増した。そもそもの始まりは「耳の聞こえない人にも音楽をより楽しんで欲しい」というものだったが、地位を確立していくにつれて音楽的な要素は薄れ、公演に行くと無音のパフォーマンスも多い。しかし筆者はこれに対し、「耳の聞こえる人に『耳の聞こえない人の為だ』ということを過剰に伝えている」ような印象を受けるためあまり肯定的ではない。耳が聞こえない人からしたら音が鳴っていようと鳴ってなかろうと関係がないからである。

うたた寝の夢

真っ暗な田舎道を運転している。この試みを始めたころの僕はなにか非日常を感じたかっただけなんじゃないだろうか。自信はないがおそらく、その彼はもう満足して寝入ってしまっている。取り残された僕はただただ、今は早く帰ってお風呂に入りたい。

真っ暗な田舎道は、真っ直ぐな分は問題ないのだが曲がる時に難儀する。道が狭くて一発でクイッと曲がる事は難しく、切り返し切り返し曲がらなければ何かに擦ったりどこかに落ちてしまう危険がある。かといって街灯もないから、フロントライトで一度見た自分の記憶と、かすかな傾斜を感じ取る自分の平衡感覚に大部分を委ねなくてはならなくなる。

僕はいつも細心だが、僕の気まぐれで連れてきた非日常が気まぐれに僕へ気まぐれを分割払いしてくれるため、不意に総毛立つのを僕はその都度梳かしていかなければならない。

この下り坂を下りきれば大通りに合流できるのだが、僕の目がおかしくなった訳でないならばなにやら赤いランプが点滅しているのが見える。僕の早まる鼓動を抑えながら赤いランプとすれ違ったが、検問かと思えばただそこで重大事件が起きただけのようだった。なにやら夏祭りに来ていた子供たちを沢山集めて連れ去ろうとした輩がいたらしい。

「びっくりさせやがって。俺の好奇心が不名誉な銘を打たれるところだったじゃねえか。」赤ランプを通り過ぎて十分な距離をとると、僕の優しい非日常は外に向かって声を荒げた。その声とすれ違いに入ってきた夜風の気持ち良さに今更気が付き、僕は情けなくて自嘲した。

上を向いて歩こう

土手を散歩していたとき、空を見上げながら歩いていると疲れる感が減ることに気が付いた。その時、自分は「地表を見ながら歩くと自分がどれくらい進んだかを無意識にも感じながら歩いているんじゃないだろうか」と思った。

地表を見ながら歩くのがベクトルだとすると、空を見上げて歩くことによって「今まで自分の歩いた量」というスカラーを意識せずに済むようになるんじゃないだろうか。

しかしこの裏技は真っ直ぐで平坦な土手でかつ、誰も通らないような時間じゃないと危険だという欠点を持っている。下手に試すと、スカラーを見て見ぬふりした線の先に想定外のピリオドを打つ事態になりかねない。

つまらない本

今まで自分はそんなに多くの本を読んでいない。読みたい本はいくつもあるのだけど、読んだ本がつまらなかった時の徒労感がトラウマのようになっていてポジティブな気持ちで本を読みはじめられない事がそれほど読んでいない理由の一つなんじゃないかと自分で思う。そのトラウマを植え付けた本を二つ書き留めておこうと思う。

一つ目は中学生の頃に読んだ「探偵ガリレオ」みたいな名前の本だ。作者は当時から勢いのあった東野圭吾。話題の作家ということもあって知的好奇心の有り余っていた当時の自分はワクワクしながら読んでいた。が、結果としてはつまらなすぎて最後まで読めなかった。科学の知識を活かして推理する。みたいな話だったが、トリック云々の前に話が面白く無かった。主人公の天才もなんだか面白みのない人間だったような気がするし、とにかく読み進めるのが苦痛だった。お小遣いから定価で買ったにも関わらず、最後まで読むことすらできなかった。

二つ目は高校生の頃に読んだ「アルジャーノンに花束を」。当時SFに興味を持ちはじめていて、三つ目くらいに読んだSFがそれだった。これは最後まで読めたのだが、読後感は単純にイライラした感じだった。自分の読解力が足りなかったのかもしれないけど、結局「天才になると愚民どもはバカに見えるけど、女の体だけは最高だぜ」みたいな話だったように、当時の自分は感じた。まあその主張は一理あるとも思うけど、偉そうに言われるとどんな主張も腹がたつものじゃないだろうか。

結果として自分は、主人公が天才の話をバカが書いたものが嫌いなんだと思う。物語を紡ぐのは自由だが、自分のキャパを理解せずに語るのはみっともないものだ。これ以上知的好奇心にトラウマを植え付けないためにも、これからの作家さんたちには自分の手に負えない話は最初から書こうとしないで欲しい。自信はないけど、その教訓は自分の日記にも反映されてるんじゃないだろうか。しかし作家のそういう側面に拒否反応を示すことが同族嫌悪のような気も、実は少しする。