ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

上を向いて歩こう

土手を散歩していたとき、空を見上げながら歩いていると疲れる感が減ることに気が付いた。その時、自分は「地表を見ながら歩くと自分がどれくらい進んだかを無意識にも感じながら歩いているんじゃないだろうか」と思った。

地表を見ながら歩くのがベクトルだとすると、空を見上げて歩くことによって「今まで自分の歩いた量」というスカラーを意識せずに済むようになるんじゃないだろうか。

しかしこの裏技は真っ直ぐで平坦な土手でかつ、誰も通らないような時間じゃないと危険だという欠点を持っている。下手に試すと、スカラーを見て見ぬふりした線の先に想定外のピリオドを打つ事態になりかねない。

つまらない本

今まで自分はそんなに多くの本を読んでいない。読みたい本はいくつもあるのだけど、読んだ本がつまらなかった時の徒労感がトラウマのようになっていてポジティブな気持ちで本を読みはじめられない事がそれほど読んでいない理由の一つなんじゃないかと自分で思う。そのトラウマを植え付けた本を二つ書き留めておこうと思う。

一つ目は中学生の頃に読んだ「探偵ガリレオ」みたいな名前の本だ。作者は当時から勢いのあった東野圭吾。話題の作家ということもあって知的好奇心の有り余っていた当時の自分はワクワクしながら読んでいた。が、結果としてはつまらなすぎて最後まで読めなかった。科学の知識を活かして推理する。みたいな話だったが、トリック云々の前に話が面白く無かった。主人公の天才もなんだか面白みのない人間だったような気がするし、とにかく読み進めるのが苦痛だった。お小遣いから定価で買ったにも関わらず、最後まで読むことすらできなかった。

二つ目は高校生の頃に読んだ「アルジャーノンに花束を」。当時SFに興味を持ちはじめていて、三つ目くらいに読んだSFがそれだった。これは最後まで読めたのだが、読後感は単純にイライラした感じだった。自分の読解力が足りなかったのかもしれないけど、結局「天才になると愚民どもはバカに見えるけど、女の体だけは最高だぜ」みたいな話だったように、当時の自分は感じた。まあその主張は一理あるとも思うけど、偉そうに言われるとどんな主張も腹がたつものじゃないだろうか。

結果として自分は、主人公が天才の話をバカが書いたものが嫌いなんだと思う。物語を紡ぐのは自由だが、自分のキャパを理解せずに語るのはみっともないものだ。これ以上知的好奇心にトラウマを植え付けないためにも、これからの作家さんたちには自分の手に負えない話は最初から書こうとしないで欲しい。自信はないけど、その教訓は自分の日記にも反映されてるんじゃないだろうか。しかし作家のそういう側面に拒否反応を示すことが同族嫌悪のような気も、実は少しする。

フロントインオーガニック

今の自分がみんなを納得させるように前向きになったらどうなるのだろうか。

まず体つきは引き締まる。今はたるんだ体型をしているので、まずそこを直さないと前向きとは認められないだろうと思う。贅肉をこそげ落とし、程よい筋肉を全身に付けることがまずスタート地点だと思うり

次に社交的になる。人との関わり方にも問題があると思われてると思う。しかしこの社交的というのは自分の身ひとつで成立し得るものではない。分かりやすい趣味。説明しやすい職業。あと流行に関する最低限の造詣があると、よりスムーズな会話が成立しやすくなると思う。分かりやすい前向きさとしてはそれらも備わっているといいと思う。

次に彼女をつくる。これは分かりやすいと思う。彼女と建設的な関係を築いているというのは、前向きポイントが非常に高いようなイメージがある。彼女について聞かれたときに言いよどんでいたようでは、他が完璧でも一気に前向き感は減ってしまう。

これだけ揃えばあとは簡単。それ以外の物を全部捨てれば良いだけだろう。前向きにおける不安要素は捨てておきたい。前向き要素だけで満足しないような業の深い人間は前向きそれ自体が目的ではなく、何かを得るために前向きぶっているように見えてしまうような気がする。

こんな人間ならどこに出しても恥ずかしくはなくなるんじゃないだろうか。SNSでも恥ずかしくないし、親戚の集まりでも完全に恥ずかしくなさそうな気がする。プレ前向きである自分からすると、なんだか薄っぺらい人間のように思えてしまうが、前向きになろうともせずに前向きを軽視すること自体、前向きから見たら薄っぺらいことなんじゃないだろうか。

しかしこうして羅列してみるとどれも大して頭も使わなそうだし、いつだってなれるんじゃないだろうか。普段無駄に稼働している脳のスイッチを強から弱に入れるだけでいいような印象を受ける。一度簡単に整理しただけで、前向きに関して少し前向きになれたような気がする。前向きに関して前向きな時点でもう、前向きポテンシャルはなかなかのもんなんじゃないだろうか。いつでも前向きになれると分かった以上急いで前向きになる必要もなさそうなので、もうしばらくは前向きに関して前向きな状態で過ごしていこうかと思った。

理性の本能

日本においては大柄に分類される体格をしているけど、役に立った試しが一度たりともない。昔から理屈っぽく、理屈がすべてだと思って生きてきている。子供の頃、親や親戚は武力をもって「理屈が全てではない」と教えようとしてきてくれた。理屈がうるさすぎることによって母親の妹の旦那さんに羽交い締めに押さえつけられたことがある人間はそれほどいないのではないだろうかと思う。しかしその教訓を自分の脳は理屈で処理して、結果こんな威嚇的な体格にしてくれたのではないかと思うこともある。

長年理屈を標榜に掲げて生きてくると、理屈のダメなところも当然見えてくる。理屈は当の理屈自身のことさえも組み伏せることが可能なのだ。たとえば他人と話している場合は、最初に打ち出した理屈にほころびがあるとそれを補填する為の少し無理な理屈を捻出しなければならなくなる。そういった苦労は正直いって不毛だ。というかそもそも考えてみると、理屈そのものが何も生み出さず不毛な場合が多いような気さえする。しかし残念な現実を合理化する為に人より多めの理屈の処方が必要だったことも事実だとは思うし。それによって自分の精神が概ね、これは自分基準でだが、概ね均衡を保ちながら生きてこれたのも事実だと言えると思う。理屈は未来のことに言及していたとしても未来の為であることはほとんどない。理屈は専ら過去の尻拭いをさせられている苦労人なのだ。せめて自分だけでも、これからも理屈に寄り添って生きていこうと思う。たとえ片思いだとしても理屈に孤独な思いをさせないように、裏切らないようにして生きたいと思う。

今日みた夢

今日はカフェインの神様による「人体とカフェインの関係」についての講義を受けました。講義といっても聴いていたのは僕一人でしたが、とてもためになりました。

まずカフェインの神様は僕の口に手を突っ込むと、何かを引っ張りだしました。神様の手に掴まれていたのは5つのカーリングの石みたいな袋が管で連結かれた物でした。

「これがカフェインを蓄え、処理する器官じゃよ」

神様は神様っぽい口調で教えてくれました。

「まあこれはイメージしやすいように可視化したサンプルゆえあれじゃが、一番上の袋が頭にあって一番下は爪先にあると思ってくれたまえ。この袋が全て満たされていると人間はいい感じになるのじゃが、あいにく体力を使ったり時間が経つとどんどん薄まっていく。地球には重力というものがあるゆえ、上の方から薄まっていくわけじゃの。」

神様は一度全ての袋を茶色くした後、上の方から薄くグラデーションさせていった。

「まあこれも分かりやすいように可視化させてみたのじゃが、実際はこうはならない。なぜかというとこの器官は『すべての袋を同じ濃度に保とうとする機能』を有しているからじゃ。しかしさっきも言ったように地球には重力がある。したがってこの機能によって、下の方の袋から上の方の袋へカフェインは運ばれるのじゃな。このカフェインを上に移動するという機能じゃが、実はなかなかのエネルギーを要するのじゃ。カフェイン切れによる虚脱感はここから来るというわけじゃな。」

カフェインの神様は満足げに講義を終え、一応僕のカフェイン袋を僕の中に戻すパフォーマンスをすると、どこかに消えてしまいました。

カフェイン袋の中のカフェイン濃度をいっぱいにして返してくれたのか、僕はそのあと元気がモリモリと出てきました。それに比例して頭の回転も良くなったようで、僕はカフェイン袋の正式名称が気になっていてもたってもいられなくなってしまいました。次にカフェインの神様に出会えたら、真っ先に尋ねてみようと思います。

嗜好性

ありのままの現実の面白くなさというのは筆舌に尽くせないと思う。「現実を避けて避けて生きてきた自分が言えたことではない」と、もっともな事を思ったりもするが、それにしたってつまらなすぎると思う。それだけに現代人には「真実が分からない状態の方が面白いか、分かった方が面白いか」を判断する能力がもっと必要な気がする。真実に関するヒントが一つだけというのは、想像力による補填の必要性が大きすぎて、逆に「面白い状態」とは言えないと個人的には思う。かといって真実に限りなく近く、想像力による補填のしどころがほとんどないような状態は、往往にして面白くない場合が多いとも思う。

ありのままの現実を受け入れまくることができて、それをそのまま楽しむ能力がある人もいることも事実だとは思うが、いるとしたら自分にその能力はほとんどないだろう。しかし他方で、自分からそういう風に見える人は「無意識的に面白い要素だけ抽出」し、自分みたいな人間が面白くないと思ってしまう原因を「無意識に排除する」能力が長けているだけなのかもしれない。とも思ったりする。たとえば自分はサッカーが下らないと思うのだが、その原因である「球を蹴っているだけだから」というつまらないファクターを無意識に排除し、やれ戦術だやれ選手やチームの特徴だという面白さを追求することができる人なのであろう。しかし自分にとってはただ球を蹴っているだけである。球を蹴っていることの楽しさも理解はできるのだが、今の世界におけるサッカーは「球を蹴ることを楽しむちょうどいい規模を逸脱してしまっている」ような気がする。と、このように、自分の脳はサッカーを肯定的に受け取る方向に考えるようには出来ていないようだ。

逆に考えれば、単純に自分の脳はそういった思考の遊びが楽しいように出来ているのかもしれない。自分の遊びの方向が球蹴りには向かず、思考を小手先でこねくり回すことに嗜好性を感じているというだけのことなのかもしれない。この遊びは体の衰えや周りの環境に左右されずやり続けられる気がする。と、このように自然と肯定的に受けとめられている時点で、きっとそういうことなんだと思う。

おかん

母の日だけど、母に何かをプレゼントしようなんて発想が湧いてくる気配もない。ましてや手紙だなんて一行も思いつかない。母親のことを考えると色々と腹の立つ思い出は想起されるけど、かといって今現在強い恨みを抱いているというわけでもない。ただ単純に母親という感じがもうしないだけだ。自分のことばかり考えていて子供っぽく、「母性とかあるの?」と聞いてみたときに「あるよ!」と元気に答えられた時は驚いたくらいだ。自分が自立して距離がかなり離れたら母の日とかいう発想も湧いてくるのかもしれないけど、そんな自分と今の自分の距離が今はかけ離れている。

母親という概念について考えると、寺山修司の「田園に死す」における母親。アレハンドロ・ホドロフスキーの「サンタ・サングレ」における母親。ひいては「ダウンダウンのごっつええ感じ」におけるマーくんの母親など、切ろうとしても切り離せない母親に対する執着みたいなものが自分の脳裏にはよぎる。しかしそういう執着の正体は実は自分の抱いているものと同質のものなのかもしれないとも思ったりする。母親という概念と現実の母親との乖離。母親が求める息子の自分と現実の自分との乖離。そういう上手くいかなさという点においては自分も執着し、されている部分が認められるのかもしれない。しかし逆に考えるとこの噛み合わず上手くいっていないことがなによりも、作り物でなくて現実の親子の証拠という見方もひょっとしたらできるのかもわからない。