ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

おとといの夢

親戚の女の子は何かの病気らしい。確かに色白で病弱そうな風貌だが、しゃべれば元気だし、辛そうな表情をしているところなんかも見たことがない。

俺はその女の子の世話をよく任される。女の子の言うことを基本的に聞くから女の子に割と気に入られていることが理由だと思う。あとこれは俺の勝手な予想だが、俺が一切彼女に同情していないのことも彼女的には楽なんじゃないだろうか。でも俺は周りが気を使いすぎだと逆に思う。何も知らずにこの女の子を見て、可哀想だなんて思うだろうか?こいつがなんの病気かは知らないけど、いつもボーッとしているじゃないか。

今日も俺は女の子に頼まれて森の中みたいな道をドライブしている。家にいると辛いけど、風を浴びていると楽なんだそうだ。家でじっとしていると熱い妖精がどんどん集まってきて体にまとわりついてきて、熱帯夜みたいな居心地の悪さが続くらしい。車に乗って森林浴をすれば、熱い妖精も風で飛んで行って、ヒンヤリ気持ちいいとのことだ。

俺はそんな話を聞いていて、どう解釈したらいいかよくわからないが、まあホントにそんな状態なのだとしたら嫌だろうなとは思う。車に乗せて窓から入って来る風を顔で受けているだけでいいなら、俺は運転するだけだし別に断る理由もない。

ドライブの折り返し地点もすぎて帰路につきはじめたとき、後部座席が静かなことに気付いた。後ろを見ると寝てしまったようだ。もう風を浴びなくてもいいのだろうか。せっかくこれからまだまだ浴びられるのに。

熟睡しているので彼女を抱えて両親のところへ預けて俺もその日は帰ったのだけど、翌日聞いたらどうやら俺の車の中で息を引き取っていたらしい。まだ若いのにあんな感じで死ぬなんて、人間っていうのは俺が思っていた何倍も不思議な生き物なんだな。と、俺は思った。それと同時に少し優しく甘やかしすぎたなと、彼女にしてやられた感じがして、俺は少し悔しかった。

夜の街でやること

子供の頃、夜に車であまり馴染みのない街を通るとワクワクした。四階建てくらいのビルがたくさん並んでいるだけで異郷の地の感じがするのに、しかも夜となると異世界の感が強かったからだ。たとえばそんな街中で気軽に外に出たりしたら、どこからともなく集まったマフィアみたいな人たちに囲まれてピンチになるんじゃないかって何割かは本気で思っていたし、高い鉄塔やビルの上で赤いランプが点滅したりしているのを見かけると「自分には想像もつかない意味があって、何かと何かが交信しているんじゃないだろう。」と想像を掻き立てられた。

当たり前のような気もするが、今ではそんなことは一切思わなくなってしまった。夜の街で車から降りてみても、誰か来るとしたら職務質問だろうし、ランプの点滅の意味は知らないけど勝手に「大した意味なんてないだろうな」なんて思ってしまう。

しかしそれは感性を失ったわけではなく、成長して夜の街から受ける印象と現実が切り離せたということなんじゃないだろうかとも思う。本気で思うことはなくなったが、いまだに自分の中のマフィアが襲って来るとすれば時間は夜だし、秘密の交信も夜にしかできないことだからだ。

パン屋の店長

「気持ちを込めて作っても美味しいパンを作れるとは限らない。」あるパン屋さんの店長が学んだ教訓がそれだった。店長は最初、志を持ってパン屋を開店した。しかし経営は簡単に行かず、紆余曲折を経てパン屋をどうにか経営していける状態まで持ってきたのだ。そののち生活もそれなりに安定し、甲斐甲斐しい妻も得て、間も無く子供も生まれた。

子育てをするにあたり、パン屋の経営で様々なことを学んだ彼は「自己流ではダメだ」と強く感じ、色々な本を読んでノウハウを得ようとした。しかし本には時々「気持ちを込めて」と書いてある。パン屋で生計を立てるにあたって「気持ちを込める」ことの無意味さを学んだ彼は、結局自己流の「気持ちを込めることを除いた」子育てをすることに決めた。

しかし子供は上手く育たず、引きこもり、顔を見せる日もどんどん減ってゆく。それに引き換えパン屋の経営は順調で、経営の上で心配なことはほとんど無くなっていた。

店長は「息子の問題は息子にある」と心のどこかで信じていたが、ある日、子育てにおいて問題があった点が「気持ちを込めること」ではなく「自己流であること」なんじゃないかと感じはじめた。自己流を排して成功したパン屋のように、子育てにおいても自己流を排すべきなのではないかと思ったのだ。

彼は「もし自己流が間違いなら、これからパン屋を自己流に方向転換しても失敗するはずだ」と思い、賭けにでた。町の素朴なパン屋さん路線からオリジナリティの強い路線に変えることによって、自分の子育てが間違っていたかどうか確かめることにしたのだ。

結果的にオリジナリティ路線は大成功し、県内でも有名なパン屋さんの地位を確固たるものにした。子育てにおいても自分は間違っていなかったと確信し、彼はこれからも絶対に「気持ちを込め」たりしないことを、密かに心に誓った。

風末

僕は地上で風が最後に着く場所で、辿り着くゴミを分別して暮らしている。世の中にどんな仕事があるのかいまいちよく知らないけど、こんなに僕に合っていて楽な仕事はないんじゃないかと日々思いながら風を浴びている。

僕から見える風景だけ見ると、もしかしたらダムだと思う人がほとんどかもしれない。灰色のコンクリートがそびえ立っている。

今日ももう日が暮れてきたのでそろそろ仕事を切り上げなきゃいけない。今日舞ってきたお金は千円札3枚だけだった。こんなに少ない日はあまりないのだけど。

舞い着く紙幣はやっぱり千円札が一番多い。手元が滑って舞って行ってしまった時、千円札だろうが一万円札だろうが、追いかける労力は一緒だ。そう考えると「千円札を追いかけるのは割に合わない」と考える人が多いのではないだろうか。舞ってくるたくさんの千円札を拾いながら、僕はいつもそんなことを考える。

バカな高校生の自分とバカな今の自分

今日畑から、国道沿いを自転車で行く高校生の群れを見て、「あの頃の俺が心うたれた言葉や考え方や詩みたいなものは、今の俺が見ても何も感じないんだろうな」と思った。今の自分の思想を形作る一助になったもののはずなのに、なんでこんなにも確信を持って「何も感じない」と思ったのかは分からないし、実際に何も感じないのかも分からない。未来にこう思うことに備えて心うたれた瞬間に日付と一緒にメモっておけばよかった。

飽食

以前放浪とかいって夜中に車でたまにフラフラしていたが、久々に昨日出かけてみたら以前のような楽しさはなかった。同じような道や同じような音楽に飽きたというわけではないと思う。別に以前もそういう部分に楽しさを見出していたわけではないと思うからだ。

ではなぜ楽しくなくなったのか車の中で考えた結論は、「温かくなってきたから」だった。外は寒くて危険で車内は温かくて安全だという、宇宙や深海を探検しているような、普通なら見えない世界を垣間見ているような感覚が喪失されていることが問題なのではないかと、自分は車内で考えた。

実際車の中で暖房をつけなくても別に平気だし、車内の空気と外の空気の差も大してない。過ごしやすい空間は過ごすこと自体が目的になり得ないので、あまり好きではないのかもしれない。

今日夢

午後8時半すぎ。雨上がりの盆地の国道沿いの平凡の車庫に、3人の女が集まっている。暗くてよく分からないが、20代から30代の前半くらいじゃないだろうか。なにかの準備が終わったらしく、軽い祝杯をあげている。

酒を一杯飲み終えると1人を車庫に残し、あとの2人は水の入ったペットボトルを持てるだけ持つと、隣の空き地へ向かった。空き地の真ん中には透明の3mくらいの直方体が立っていて、よく見るとそこから管が車庫に伸びている。

2人は迷わずその箱に入ると、手際よく扉を閉めた。そして管の先をビニール袋に入れ、持っていたペットボトルの水をビニール袋の中にあけた。外で見ていた1人はその様子を確認すると、車庫へと戻って行った。

箱の中の2人は嬉しそうに車庫の方を見ている。なにかの気配を察知したのか一度2人が目を合わせると、次の瞬間車庫が一瞬光り、あたりに爆音が轟いた。

気付けば辺りは水浸しになり、走っていた車も止まってしまっている。どこから水が来ているのかは確認できないが、尋常ではないスピードで水位は上がっている。透明の箱を見るといつの間にか管が外れ、水に浮いている状態だ。しかし箱の内側も、外の世界よりは緩やかにだが水に浸されていっている。

水が家並みを飲み込んでからどれくらい経ったのだろうか。箱の中の2人は計画の成功を確認して満足そうな表情だ。内側の9割くらいも水に浸ってしまっているが、2人の表情に欠片の恐怖心も見当たらない。

水が箱を満たしてしゃべれなくなる直前に、1人が口を開いた。

「失敗するはずなんてなかったんだから、中も一瞬で満タンにしちゃってよかったね。」

水で100%になった箱の中で、もう1人はニコニコと頷いた。