ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

猛省

自分はあまり反省をしない。これがまず1つ反省すべき点なのだけど、最近なんとなく反省した方がいい感じがするのが、すぐに人を馬鹿にしたくなることだ。ほんのちょっとした揚げ足でもとって、どんどんそこから話を広げていきたい。可能なことならそれを本人に伝えたい。なぜかというと、面白いと思うからだ。悪意は1%も含まれてはいない。そこからどんどん話を広げていきたい。たとえばそこに「相手より優位に立とう」みたいな野心などの不純物はない。むしろそこから仲良くなりたい。いい人だったら仲良くなりたい。悪い人だったら分からないが、とりあえず伝えないだろう。例えばあげつらってなじって屈服させたとしても、特に自分は楽しくないと思う。それに普通に、屈服させるほどの強さも、そんなことに向けて頑張る気力もない。それが骨折り損でしかない事はなんとなくわかる。しかし、かといって、いい人にももちろん実際に伝えたりはしない。揚げ足をとられるというのは、一般論的には気持ちのいいことではないと思っているからだ。そんな捻じ曲がったコミュニケーションの取り方をするくらいなら、黙っていようとついつい思ってしまう。あと、揚げ足をとりあうのが好きだと思われて自分の揚げ足もとってこようとしてこられたら最悪だからだ。なぜかというと、そういう人はいい人なので、あまり揚げ足を取り慣れていないからだ。加減が分からずただ痛いところを突いてしまったり、逆に的はずれな指摘をしてしまうからだ。そういう優しさは結局こちらの負担になる。なので大抵の場合は黙っていたらいいかなという感じになる。

人の揚げ足をとるというのは自分の中では冗談を言うくらいのフランクなところがあるのだが、他人にどう受け止められるかは分からない。それなら普通に冗談を言えばいいのだけれど、それはそれでかっこ悪いので気は進まない。なぜかというと、自分の冗談は非常に平和だからだ。これも1つの自分の特徴だと思う。老人や子供が喜ぶような優しい冗談くらいしか思いつかないのだ。若々しいコミュニケーションといえばやはり毒気がないと始まらないような気がして、優しい冗談を言うという発想自体がそもそもないのだ。

しかしこうして考察してみると、結局自分の優しさが仇になってしまっているのかとも思い、深い反省には至らない。黙っていることも褒められた態度ではないと言えばそれまでだが、自分は触らぬ神に祟りなしという言葉の側に立ちたいと思う。結局自分の行動は独善的な優しさに依拠しているということなのかもしれない。しかし結局、優しさに貴賎なしという感じで自分の中では片付けられてしまうので始末に負えない。