ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

自分は子供の頃から「今、何を感じるべきなのか」ということが頭の中で問題になりがちな人間だったと思う。世に言う「物心がついた」瞬間に考えていたことがそれなんじゃないかともなんとなく思う。

たとえば我慢できるレベルで痛いことが身に起きたとき、それを外に出すことが果たして適切なのか、そして適切だった場合にそれをどう表現することが適切なのか。そういうことを考えだすと当然表現すべきだったタイミングはとっくに終わっていて、「どう表現するのが適切だったか」という問題についてはいくら考えても答えが出ることはなかった。これは誰もが通る道なのかもしれないが自分はかつてそういう子供で、「どう表現するのが適切だったか」という問題は未だに未解決だ。

しかしなにごとにも当意即妙その場で回答を出さなきゃいけないわけではない。答えを提示するまでに十分な猶予を与えられる場合もある。そういうときに自分が今まで何を基準にしてきたかというと往々にして「どう受け取るのがカッコいいか」であったと思う。

カッコいいことの基準は自分の中では最初からナチュラルに存在していた。平凡でなく、ケチでなく、知性を伴っていること。それを満たしたいることが究極の理想であったのではないかと思う。それは自然発生したものではないとも、今になると思う。おそらく人より弟や妹が多めにいることとかが関わっているのではないだろうか。今の自分がそういう基準にもう凝り固まっているというか、しがみついているということはないんじゃないかと思う。しかしこれからも究極の理想を想起したときに自分が顔を向けるのは、結局そこになってくるんだろうとも思う。