ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

嗜好性

ありのままの現実の面白くなさというのは筆舌に尽くせないと思う。「現実を避けて避けて生きてきた自分が言えたことではない」と、もっともな事を思ったりもするが、それにしたってつまらなすぎると思う。それだけに現代人には「真実が分からない状態の方が面白いか、分かった方が面白いか」を判断する能力がもっと必要な気がする。真実に関するヒントが一つだけというのは、想像力による補填の必要性が大きすぎて、逆に「面白い状態」とは言えないと個人的には思う。かといって真実に限りなく近く、想像力による補填のしどころがほとんどないような状態は、往往にして面白くない場合が多いとも思う。

ありのままの現実を受け入れまくることができて、それをそのまま楽しむ能力がある人もいることも事実だとは思うが、いるとしたら自分にその能力はほとんどないだろう。しかし他方で、自分からそういう風に見える人は「無意識的に面白い要素だけ抽出」し、自分みたいな人間が面白くないと思ってしまう原因を「無意識に排除する」能力が長けているだけなのかもしれない。とも思ったりする。たとえば自分はサッカーが下らないと思うのだが、その原因である「球を蹴っているだけだから」というつまらないファクターを無意識に排除し、やれ戦術だやれ選手やチームの特徴だという面白さを追求することができる人なのであろう。しかし自分にとってはただ球を蹴っているだけである。球を蹴っていることの楽しさも理解はできるのだが、今の世界におけるサッカーは「球を蹴ることを楽しむちょうどいい規模を逸脱してしまっている」ような気がする。と、このように、自分の脳はサッカーを肯定的に受け取る方向に考えるようには出来ていないようだ。

逆に考えれば、単純に自分の脳はそういった思考の遊びが楽しいように出来ているのかもしれない。自分の遊びの方向が球蹴りには向かず、思考を小手先でこねくり回すことに嗜好性を感じているというだけのことなのかもしれない。この遊びは体の衰えや周りの環境に左右されずやり続けられる気がする。と、このように自然と肯定的に受けとめられている時点で、きっとそういうことなんだと思う。