ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

腸がこぼれる

なんでか分からないが下腹部右側が裂け、手で押さえていないと腸がこぼれる格好になってしまった。腸には傷がなく痛みがないのが不幸中の幸いだが、このままで生活するのはどう考えても不便だ。押さえる為に片手が常に塞がってしまう。

両手を使う時、例えば財布を開けたい時なんかは仰向けに寝そべらなければそれすら叶わない。不便で仕方ないし、うっかり腸がこぼれ落ちてしまったら大変なので病院には行こうと思う。現に最初に裂けたとき少しこぼれ落ちたのだが、生命が外に出て行くような感覚に陥った。あれは軽いトラウマだ。その時は急いで押さえてなんとか中に納めることができたが、次こぼれてしまったときに上手く納めることができる自信はない。腸がどんな仕組みになっているのか知らないので確かなことは分からないが、全部こぼれ出たら死ぬと思う。その時そう感じたのだ。

医者に行けばいいとは思うのだけど自分でなんとか出来ないものなのだろうか。私はついついこういう事を思ってしまいがちで、思いついてしまったら試さずにはいられない性質である。しかしさすがに自分の皮膚でそんな実験をする気にはなれないので、タオルを持ってきて、それを皮膚に見立てて両端を糸で縫い合わせてみようと思いついた。

仰向けに寝そべって腸がこぼれ落ちないようにしながら「こうすればいいんじゃないか」と思うやり方で縫ってみたところ、これがなんとそれっぽくなったではないか。なんとなくでやり始めたのに一発で出来た。特殊メイクとかで縫い合わされた皮膚が表現されている時の見た目って大体こんな感じだ。私は満足し、裁縫セットを片付け、しっかりお腹を押さえ、病院に出かけることにした。

応急欺瞞

それくらいの欺瞞なんとかなるって。順序立てればそりゃ欺瞞だけど野に放てば案外馴染むって。むしろその欺瞞で悩ます良心が欺瞞だって言われかねないご時世だって。ごまかすと思うからいけないわけで、それをごまかすことだとも思わずに生きてるやつがいっぱいいるんだからさ。もったいないよ。せっかくじゃん。

事実

今、目の前で転校生が血まみれで死んでいる。転校生と呼んだが、こいつが転校生だったことは今思い出した。要するに他所者だ。この村のしきたりを知らなかったのだ。

そのしきたりというやつも、率直に言って今思い出した。たしか小学校の頃に社会科で村の賢いお爺さんの話を聞いて回った時に聞いた気がする。いや、もしかしたら中学の入学式で校長がそんな演説をしたのかもしれない。とにかく幼い頃からここに住んでいれば、転校生のような行動はとらなかったはずだ。

どんなしきたりなのか説明したいが、それも上手くできない。詳しく説明すると細かいところを間違うかもしれないし、どこまでが本当でどの部分が迷信なのかも確信は持てない。とりあえず、いざというときは何もしないのが正解だということだけは言える。転校生は声を上げ、走り、逃げた。そのどれがNGだったのか分からないが、昔からここに住んでいた同窓生は皆じっと動かずにやり過ごしていた。そう、その時が来てしまったら誰も転校生を助けることなんて出来なかったのだ。

転校生は中学時代に都会からきた。そして今も都会に住んでいる。そして、そう言う僕も今は都会に住んでいる。今日はちょっとした同窓会だった。こんなことになるなんて誰も想像していなかった。

ほかの皆はどうか分からない。しかし僕は初めて「田舎に生まれてよかった」と、この瞬間に思ってしまっていることを白状したい。転校生に恨みはない。彼はいいやつだ。ただ都会に生まれてしまっていた。それが彼の命を奪う結果になった事だけが事実なのだ。

本音建前

どうしたって説教してみたくなることがある。これはもしかしたら怠け者特有の振る舞いなのかもしれない。自分が変わるのはあまりにも面倒臭すぎるから、他人を変えていきたい。

面倒臭いというのも難しい。建前では「なぜ世界がおかしいのに俺が変わらなければいけないんだ」というのがある。大差ないが、面倒臭いよりは多少は耳障りのいいフレーズになっているため「建前」のように思ってしまうが、もしかしたら本当にそう思っているのかも分からない。2つの性質の異なる概念が自分の中に発生したとき、自分は困難な方を建前、安易な方を本音というふうに無意識に分類してしまうようになっている。

これから多分困難なこともしていく気がするが、建前もとい大義名分に基づいている可能性は皆無に等しいように思える。その正体は単純に、気まぐれだ。

自分が自分の行動原理を気まぐれで片付けがちなのは、それが安易な本音だからだろうか。だとしたら大義名分の方もちゃんと考えておかなければバランスがとれない気がする。

めゆ

「ここが近道なんだよ」と言われてついてきたけど、なかなか雰囲気があっていい道だな。色んな畑の間で自然がいっぱいなのだが、森なんかと違って完全に人の手が加えられ尽くしている感じがなんともいえない不思議な雰囲気を醸し出している。畑に欠かせない用水路は地面より高い場所を流れていて、僕たち3人はコンクリートで出来たその縁の上を歩いている。先導する2人は兄弟で、僕は今日その家にお邪魔させてもらう。

非日常的な雰囲気は終始続いていたが、途中水路がぐちゃぐちゃの迷路のようになっている箇所があり、そこの異質感は飛び抜けていた。コンクリートの迷路の中をゆるやかなスピードで水が流れ続けている。兄弟もそこはお気に入りのスポットらしく、僕ら3人はそこでしばらく遊んでから再び進み始めた。

 

兄弟の家での時間は楽しいものだったが、そろそろ帰ろうかと思う僕の心はにわかにざわついていた。外が暗くなってきていたからだ。「暗くなったら足下がよく見えずに迷路に落ちてしまうんじゃないか」「あの迷路に落ちたら終わりだ」という不安が僕の脳内を占拠しつつあった。

ただそんな心配も杞憂に終わることになった。早めに帰ることを告げると兄弟は通常の帰り道を教えてくれたのだ。あの迷路へはまた明るい時に1人で行ってみようと思う。

ふげ

僕は時折幻聴を聴く。悩まされているというほどではないが、大袈裟に言えば歯に何か挟まっているようなスッキリしなさを常に抱えて過ごしている。とはいえ生活に支障をきたすようなレベルの騒音では当然なくて、簡潔に言ってしまえばたまにカウベルの音が聴こえるのだ。

この症状は就職してから、しかも仕事中に限るものなのでストレスによるものだということは自分の中で解明済みである。そんなに辛い仕事でも、辛い職場環境でもないのだが、それでも働くということ自体に僕はストレスを感じてしまっているのだろう。カウベルの音色はそんな風に僕の甘さを指摘してきているように感じる時もある。

しかし3年以上続いていたこの問題が、ある日突然急展開を迎えることになった。それは突発の飲み会の席で発覚した。なんと、先輩の中にカウベルの音を口から鳴らしてしまう癖のある人がいたのだ。

その事を知った時の僕の喪失感といったら、おそらく誰にも分かってもらえないのではないだろうか。なんだその真相。僕とカウベルは、僕の中でもう共存関係を構築しつつあったというのに。これからその音色を聴いたところで「ああ、あの先輩が近くにいるのか」くらいのことしか思わなくなってしまうではないか。

それからしばらく僕は、カウベルの音を聞くたびになんだか興を削がれるような感覚に陥るのであった。

ゆーめ

有名な、滝が見える露天風呂がある。

その滝は岩場の亀裂から落ちている。その亀裂の中は聖地とされ、選ばれた者だけがそこで祈ることを許されている。

修学旅行で来た僕たちはその荘厳な滝を見ながら露天風呂でプカプカしている。露天風呂の方はほぼ温水プールのような感じで、重苦しい雰囲気はない。

僕が端の方で漂流していると、滝がよく見える辺りに人がどんどん集まっていることに気付いたので、僕も行ってみることにした。

近付いていくとすぐに人だかりの理由がわかった。亀裂の中に同級生が入って祈っているのだ。彼は変わり者で知られている。

聴衆は面白がっていたが、その歓声は次第に不穏な雰囲気に変わる。なんと祈っている彼の後ろから、大人が近づいてきているのだ。

大人がある程度の距離まで近付くと亀裂の彼も気付いて逃げ始めた。彼が逃げ始めたことによって僕らも気付いた。彼を追う大人の雰囲気は明らかにおかしい。彼を注意しにきた感じではない。彼を襲おうとしているようにしか見えない。

2人が亀裂の滝の出口に近付くにつれ、その鬼気迫る表情が僕らにもよく見えるようになってきた。