ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

音楽王国

音楽が好きで、気に入った曲はしつこく何度も聞く。それは研究ごっこであり、男性的な接し方だと自分で思う。好きな曲を集めて共通する特徴を探ったり、物足りない曲はなにが自分にとって物足りないのかを探ったりしてみる。そうやって勝手に自分の定義で体系化し、自分がルールの王国を作り上げる。そうしえ出来上がった王国の中で流れる曲たちは、あたかも自分に従って自分の為に音を奏でているかのようでもあり、えも言われぬ陶酔感を与えてくれる。

それをなぜ男性的だと思うかといえば、自分が男だからだ。それと女の趣味に対する入れ込み方を見てると「なんか違うな」と思うからだ。

女も音楽好きだし、色々鑑賞する。あと演劇が大好きだ。男も演劇好きはいるけど結局比較分析したがってると思う。それを思うと女は演劇に対して真摯で敬虔に見える。比較分析なんてしたがる男を軽蔑してるんじゃないかとさえ思う。女の気分を害したくはないので、今日も自分は我が王国に引きこもり圧政を続けている。

夢。

ここら辺に美味しい店あるって聞いたのに、なんだよそもそも店自体がないじゃないか。「通りしなに見つけて雰囲気がちょうどよさそうだったら入ろうかな〜。じゃなきゃ近場のテキトーな店で食べよう。」なんて認識でくるべき地域じゃないよこんなとこ。思ってたのと違って山奥じゃん。というかそのお店もたしかパスタ屋さんだっけ?まず間違いなく俺なんかが入ったら場違いなパターンじゃん。だったらはなから他の店探すか。でも万が一ってこともあるしな〜。普段パスタなんて食べないからちょうどいい雰囲気のちょうどいいパスタがもしあるならば食べていきたいけど……。

というか、ここが話に聞いた地名だよな。いやいや、お店なんてないんだけど?なんか田舎のテーマパーク的なやつが見えてきたんだけど?まさかあれの中っていうことはないよね。もしそうならちょうどいいとかそういう以前の問題になっちゃうんだけど。あんなとこ1人で入る勇気はさすがにないよ?この信号は左折しよう。じゃないとテーマパーク的なとこに自動的に入って行っちゃう。

よし。左折してテーマパーク回避できた。できたのはいいけど、同時に聞いてた地名じゃなくなったね。どこここ?お腹ぺこぺこなんだけど。コンビニでいいからないかな。ほか弁でいいからあってくれないかな。

今朝見た夢

これはなかなかないくらいの糞ゲーだと思う。一体どこの会社が作ったんだろうか。切実に早く終わってほしい。こういうジャンルのゲームをなんていうのか僕はよく知らないが、自由度が高くてリアルな、いまどきのよくある感じのやつだ。

僕がつぎやるべきなのは確か、特別なキノコを探すとかそんなような感じだった気がする。しかし正直、そんなことをしている場合だとは到底思えない。なぜかと言うともたもたしていると、酸の雨が降ってきてここら辺の全てが滅びるのだ。僕は何度も今いるセーブ地点からやり直しているが、死因は毎回一緒である。無論、溶け死んでいる。

溶け死ぬとわかったらもうキノコなんて探している場合ではない。どこかに逃げるか、隠れるか、ゲームだから酸の雨を止める方法がある可能性だってあるんじゃないだろうか。とにかくキノコを探すという選択肢は僕の中にはない。

引き連れている旅の仲間2人のためにも、酸の雨をやり過ごして生き延びることが最重要なのだ。この2人は僕に付き合って、もう20回近く溶け死んでくれている。ゲームの中の存在とはいえさすがに僕も申し訳なくなってきた。それになにより、僕自身がすっかりうんざりしている。酸の雨ってなんなんだ。理不尽すぎるし、どんな世界観なんだここは。

そんなこんなで僕は見たことのない岩だらけの地形に迷い込んだのだが、不用意に地上に降りたせいで天然の岩の檻の中に閉じ込められてしまった。したがって今の僕は酸の雨待ちと言っても過言ではない。こういう詰み方もあることに関しては今回初めて知った。次は地上に降りず、岩の上を綱渡りしていこうと僕は心に誓った。

読む速さはどれくらい

「くらやみの速さはどれくらい」を買ってしまった。どうせ読まないのに。アルジャーノンに花束をの再来と言われていた名作SFらしい。アルジャーノンが嫌いなのに100円だったから買ってしまった。アルジャーノンが障害者を利用、冒涜した出来損ないの気持ち悪いロマンスであることは言うまでもないので、くらやみ〜の方がまだ面白そうではある。しかし比較対象がどうしようもない小説なので、そんなものに勝っているからといって大したステータスにはならない。

それにしてもなんでSF作家は自閉症とかの人を作品に出そうとするのだろうか。自分が崇拝するグレッグイーガンも何度か出していたような気がする。自閉症の人はSF作家の気持ちになりきって小説を書こうとなんてしなさそうだから、正直SF作家の方が重篤な病を患っているような気がしないこともない。そう言う自分も読破する算段のつかない小説を買ってしまっているあたり、SF作家サイドの人間のような気がしないこともない。

会話の病気

さっき仕事中に自分が親に「◯◯ある?」と尋ねたら「え?なんに使うの?どこ持ってくんだ。あとでやってほしいことあるから、△△やっといて。◻︎◻︎はやんなくていいから。」と言われた。自分は例によってイラッときた。「◯◯ある?」と尋ねられたら、まずはあるかないか答えるのが会話なんじゃないかと、自分は思ってしまう。自分が投げたボールと違う球が返ってくるキャッチボールは、なんだかモヤモヤが残る。そしてそういう人間がなぜか自分の周りには多い。

思えば以前彼女がいたときに、その彼女がすごくそういうタイプだった気がする。そういう人は喧嘩するとき、さらにその性質が酷くなる。「はい」か「いいえ」を求める質問を投げかけたら、まずは「はい」なのか「いいえ」なのか言ってほしい。色々こっちの考えや想いを推し量ってくれるのも殊勝な心がけだとは思うが、会話におけるスッキリ感をまずはほしい。こっちが聞きたいことを聞けないと、モヤモヤはどうしても募ってしまうのだ。

とはいえ自分がそういうことでイライラしてしまうことを完全に正当化するつもりもあまりない。そういう部分に関しては自分は病的な部分があるとは自覚している。なので会話のルールが近い人間にこれからもし出会えたのなら、なんとも言えない感動を味わえそうな気がしないでもない。

今日祖母に「藁を運んでくれ」と頼まれたけど、その時の頼み方にカチンときた。「軽トラ使えないけど、別の車だと汚れちゃうから軽トラ使えるまで待ってやってくれ。」と言ってきたのだ。たとえば自分が「ちょっと車汚れちゃうから軽トラ空くまで待とう」と言うならまだ分かるが、さもこっちの気持ちが分かるかのように気持ちを回り込んで変な気を利かせてくる小賢しさに腹が立つ。

イラッと来たがニコニコしながら「ばあちゃんは余計な気を使わなくていいよ」とだけ言った。午後もし軽トラが空いていても別の車で運ぼうと思う。

因果

以前「酒を飲んでるやつが馬鹿に見える」みたいな日記を書いた気がする。今日、その原因が父親に対する反抗のような気がしたのだが、その時の日記もそういう内容だっただろうか。一切思い出せないし、確認するのも面倒くさい。したがって同じ内容になるかもしれないけど、もう一度書こうと思う。眠いし、たまにはそういうのもありだと思うので書いていく。

自分が多感な時期に父親に言われたことで印象に残っているのが、「そんなもの(プリン)わざわざ買って食ってんのか」である。それも多分昔の日記で書いた気がする。自分はプリンが好きなので、自分の好きなプリンを馬鹿にしてくる父親の好きなものを馬鹿にしたくなり、父親の好きな酒を馬鹿にするようになったのではないか。これが今日思いついた説である。そして多分そういう論理展開は昔の日記ではしてないんじゃないかと思う。もししてたら自分は大したもんだし、してなかったとしたら自分は大したもんだと思う。