妄想相談
「DJあおいという人がありがたがられている理由が分かりません。素性もなにもよく分からない上に、よく相談など受けているけどその回答にも私は納得がいかないことがほとんどです。けど友達はみんな一定の尊敬をしているみたいで、私は毎日モヤモヤします。もしかして私がおかしいのでしょうか?」
まず言えることは、あなたがおかしいなんてことは少しもあり得ないということです
あなたに周りと違う部分があるとすれば、周りより少し知能が高いことかもしれません
DJあおいさんの文章は基本的に根拠などのない個人の感想です
色々な経験をされてきて、色々な人を見てきたDJあおいさんの『感想』
基本的にそれが彼女のスタイルなんですよね
それはそれで誰も批判することはできないと思うのですが、問題は読み手の捉え方ですよね
それが単なる感想であるにも関わらず、あたかも客観的で普遍的な意見だと捉えてしまう
そういう部分にあなたは違和感を覚えているのではないでしょうか
意図的に根拠を載せてないのか、天然なのかは分かりません
しかしその程度の文章をありがたがってしまうのは結局、その程度の人間だということですね
あなたは間違っていません
世の中にはたくさんの質のいい文章が転がっています
これからは質の低い文章には構わず、周りに流されず
あなただけの感性をあなたの方法で磨いていってください
暑い夢
チョロQを引っ張りすぎると、どういう原理かは分からないけどカチカチと鳴り始める。大きいチョロQがあったらこんな音が鳴るだろうなというようなカチカチ音が、日常生活において時折聞こえる。音までの距離はまちまちだし、時間的な長さもまちまちだ。
果たしてこのカチカチ音は生き物によるものなんだろうか。もしそうならカチカチ音の正体は僕のことは知ってるのだろうか。雨の日でも、真夜中でも外から聞こえてくるのできっと人ではないと思いたい。人だったらさすがの僕でも怖い。
僕が本気でカチカチの正体を知りたいと思い始めたらどういうことができるだろうか。カチカチが聞こえ始めてから追いかけ出したのでは逃げてしまったりするのではないだろうか。まあそんな心配もまだ必要はない。なぜなら僕はカチカチの正体にはまださほど関心はないのだ。
近頃は本当に暑い。冷房の原理は空気を潰したり伸ばしたりする事だと聞いたことがあるが、今の時代もまだそうなのだろうか。涼しい風は僕の気持ちを非常に落ち着かせてくれるが、なかったらなかったで仕方ない。涼しい風を作り出そうなんて考えたことは現時点では一度もないのだ。
回避依存性
自分は回避依存性らしい。ネットで回避依存性というワードを見かけて気になり検索にかけたら、自分の特徴が羅列されていた。初めて見る病名を検索して「これは自分のことだ」と思ったことは何度となくあるが、これは今までで一番自分だと思う。色々な弊害が書かれていて割とボロカスに言われている心の病気らしいが、今現在自分自身は肉親くらいにしか迷惑をかけていないので世の中に対する害は少ない方なんじゃないかと思う。とはいえ自分の病名が1つ明らかになった以上は改善しようと善処しなければならないだろう。自分も回避依存性の端くれなので「治したところで誰になるというのだ。自分が形作ってきた自己の呼称や特徴や弊害が白日の下に晒されたところで、世のため人のためにそれを変容させる義務なんてない」とでも言いたいところだが、それは回避依存性の中でも最弱の思考回路ではないだろうかと思う。
回避依存性とわかった上で回避依存性っぽいことを言うのと知らずに言うのでは意味が違う。これからは回避依存性然とした思考回路に1つ回避依存性という名前の検問ができたのだ。回避依存性の回避方法の1つに「複雑に考えすぎるな」というやつがあったが、これからしばらくは必然的に1つ多めに考えなくてはならなくなってしまったわけであり、回避依存性という言葉を知ったことによって自分の回避依存性は一段階ひどくなってしまったわけである。
それを踏まえるとやはり回避依存性を否定するのは最弱だろう。複雑なプロセスがせっかく追加されたのに、それを無視してしまっている。それだったら肯定し、改善を表明した方がベターなんじゃないだろうか。したがって自分は回避依存性として、回避依存性の改善を心がけようと思うに至った。
ゆめ日記
こんなに俺って汗かきだったっけ。屋内なのに汗が止まらない。空調が効いてないというわけでもなさそうだ。みんなはすました表情をしている。
屋内でこんなに汗をかいているのは絶対におかしい。外ならまだしっくり来るだろうから、早く外に出たいのだけれどなかなか外に出ることができない。この建物のややこしさが、俺の発汗をなおさら促進する。とはいえタオルは持っていてよかった。拭き取り続ける形にはなるけど、垂れ流すよりはマシなんじゃないかな。それにしてもどうやったら外に出れるのだろうか。ここ多分一階ですらないぞ。
汗だくで展望スペースを通り抜け、汗だくで展望スペースの受付を通り抜け、汗だくで廊下を通り抜け、汗だくでゲームセンターを通り抜けたが、一向に階下に降りれそうな雰囲気はない。単純に迷ってはいるのだが、しかしここはさっきも通ったような気さえする。
ゲームセンターのフロントを通り抜けようとしたとき、中学の知り合いの女の子とすれ違った。同じクラブに入っていたので、一応会釈だけして通り抜けようとしたのだが、止められた。
「どうしたの?すごい汗だね。」
彼女は笑いながら、俺の頰の汗を手で拭った。彼女の右手はべちょべちょになっている。
人智を超えた事が目の前で起きたせいで俺の頭は一瞬混乱し、機能停止に陥ったが、俺は本能でもって「大丈夫!またね!」とだけ言ってゲームセンターから外に出た。ここは空調が本当に効いているのだろうか。俺の体はどうしてしまっているんだ。
今日の夢〜
北朝鮮が無事アメリカに核を打ち込み、当面の見通し通り世界には混沌が訪れている。かくいう私も混沌に乗じて自我を解放しようとしている。しかしこれは生来私の抱えている自我なのだろうか。それとも混沌以前に堆積していた自我が混沌の到来によって変容してしまったものなのではないだろうかとも近頃は感じる。混沌以来私の頭は冴えている。少なくとも私はそう感じている。混沌が訪れる前は毎日寝ていても生きていけたのだ。混沌というやつには存外脳の働きを促進する作用でもあるのではないだろうか。
北朝鮮は1度目の打ち上げに失敗した。それにもかかわらず、今アメリカかのどこそれはネズミ一匹いないという。もう一週間は経っているからひょっとしたらそろそろ湧いてきてるかもしれないが、食糧には困ってるんじゃないだろうか。その後の北朝鮮がどうなっているかは分からない。とにかく毎日ものすごい量の情報が飛び交うのだ。ニュース番組以外やらなくなったテレビを見るほど私は暇ではない。電気の通った私のコンピュータは次のステップとして体を動かしたがっているのだ。とにかくその1度目の失敗というのが私にインスピレーションを与え、夜も寝かしてくれなくなったという次第なのである。
要するに私もミサイルを打つのだ。私はそれの搭乗員である。普通のミサイルに搭乗員がいるかどうかは知らないが、もうコックピットを作ってしまったのだからもうつべこべ言う段階ではないだろう。とにかく私は今コックピットに載っていて、発射の瞬間を迎えようとしている。発射に成功はない。「こういう軌道を描いて飛ぼう」とかいうことを意図的に考慮から取り除いたため、奇跡的にキレイに飛ぼうがそれは失敗であり、成功だ。私の心は決まった。秒針が12に辿り着いたら私は失敗する。
なんのシミュレーションもしていなかったため、発射の衝撃は私の意識を奪った。気がついたら私は滑空していた。北朝鮮に1度目に飛ばされ、爆発すらせずに海に沈んだ一基目のミサイルの気持ちを私は味わっているのだ。思いの外そこには落胆や絶望はなく、空と海とでくどいほどにただただ青いだけだ。ただの優雅な空中散歩の後、私は海の藻屑のなった。ただ1つだけ気になる心残りが出来て死んでしまった。着水する数分前に私と似たようなミサイル一基とすれ違い、搭乗員と目が合ったような気がしたのだが、あれは私の見間違いかそれとも幻覚の類だったのだろうか?
ハムスター
小学校の低学年の頃、クラスでハムスターを飼育していた。その頃の担任の先生は自分たちに対して、「かわいいから触りたいという気持ちも分かりますが、あんまりベタベタと触るとハムスターにとっては大きなストレスになって死んでしまうので、あまりベタベタ触らないようにしましょう。」と注意されたことが自分にとっては小さな衝撃だった。ハムスターを自分に置き換え、自分もベタベタ触られたら死ぬのではないだろうかと思ったような印象がある。
それが自分の性質を説明してくれた言葉だったのか、自分の性質を形作る言葉だったのかはわからないが、今でも他人に触れられると死ぬような感じが一瞬する。「触るのには限界値があるから、なるべく残機を残すためにも触らないでおいてくれ。」というような気持ちが一瞬だが湧いてくる。別に人に触られるのが嫌だとか、触って欲しくないとかいうわけではないのだが、不意に触られることがあったりすると、なんか「ああっ」と、「やっちまったよ」と思ってしまうのである。
死に方もインド的
照りつける日差しだけは一人前に熱くなってきた。新しい畑の段取りをボチボチ始めなければいけなくて、正直に言うとダルい。日差しに比べたら風はまだ涼しい感じもするので、今のうちに段取りした方がいい事は確かなのだろう。もたもたしていたらそのうち風も温風になってしまう。
私が重い腰を上げあぐねていると、自転車に乗った老人が近寄ってきた。50代後半くらいだろうか。色黒でメガネをかけていて白髪。服装からするとなんだかインド人っぽい雰囲気だが、人相からして日本人だろう。老人は無感情ながら小刻みに震えた声で話しかけてきた。
「日赤はどこでしょうか。」
「日赤?全然この辺りではないですよ。そこ右に曲がって真っ直ぐ行ったら運動公園があるでしょう。そこを左に曲がって住宅公園についたら右に曲がって、そこを真っ直ぐ行ったところです。」
「ありがとう。」
次の日も私はその老人に同じ場所で話しかけられた。
「日赤の行き方をもう一度聞いてもいいですか。」
「運動公園は分かりますよね。」
「はい。」
「運動公園を左に曲がって、住宅公園のところの交差点を右です。」
「ありがとうございます。」
「大丈夫ですか?車で乗せて行きましょうか?」
「ありがとうございます。大丈夫です。」
老人は次の日も私の元へきた。
「運動公園から住宅公園まではどのくらいの距離でしょうか。」
「まあそこそこありますね。住宅公園のところの交差点はあれですよ。市場みたいなのがありますよ。あのりんごのでっかい絵が描いてあるとこ。」
「分かりました。ありがとうございます。」
「気をつけてくださいね〜。」
翌日ついに老人は私のところへ訪れなかった。
「結局日赤には辿り着けずに死んじゃったか。だから載せていくって言ったのになあ。」
もう畑の段取りも出来ているので、私は今日はもう帰って昼まで休むことにした。