ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

今日みた夢

今日はカフェインの神様による「人体とカフェインの関係」についての講義を受けました。講義といっても聴いていたのは僕一人でしたが、とてもためになりました。

まずカフェインの神様は僕の口に手を突っ込むと、何かを引っ張りだしました。神様の手に掴まれていたのは5つのカーリングの石みたいな袋が管で連結かれた物でした。

「これがカフェインを蓄え、処理する器官じゃよ」

神様は神様っぽい口調で教えてくれました。

「まあこれはイメージしやすいように可視化したサンプルゆえあれじゃが、一番上の袋が頭にあって一番下は爪先にあると思ってくれたまえ。この袋が全て満たされていると人間はいい感じになるのじゃが、あいにく体力を使ったり時間が経つとどんどん薄まっていく。地球には重力というものがあるゆえ、上の方から薄まっていくわけじゃの。」

神様は一度全ての袋を茶色くした後、上の方から薄くグラデーションさせていった。

「まあこれも分かりやすいように可視化させてみたのじゃが、実際はこうはならない。なぜかというとこの器官は『すべての袋を同じ濃度に保とうとする機能』を有しているからじゃ。しかしさっきも言ったように地球には重力がある。したがってこの機能によって、下の方の袋から上の方の袋へカフェインは運ばれるのじゃな。このカフェインを上に移動するという機能じゃが、実はなかなかのエネルギーを要するのじゃ。カフェイン切れによる虚脱感はここから来るというわけじゃな。」

カフェインの神様は満足げに講義を終え、一応僕のカフェイン袋を僕の中に戻すパフォーマンスをすると、どこかに消えてしまいました。

カフェイン袋の中のカフェイン濃度をいっぱいにして返してくれたのか、僕はそのあと元気がモリモリと出てきました。それに比例して頭の回転も良くなったようで、僕はカフェイン袋の正式名称が気になっていてもたってもいられなくなってしまいました。次にカフェインの神様に出会えたら、真っ先に尋ねてみようと思います。

嗜好性

ありのままの現実の面白くなさというのは筆舌に尽くせないと思う。「現実を避けて避けて生きてきた自分が言えたことではない」と、もっともな事を思ったりもするが、それにしたってつまらなすぎると思う。それだけに現代人には「真実が分からない状態の方が面白いか、分かった方が面白いか」を判断する能力がもっと必要な気がする。真実に関するヒントが一つだけというのは、想像力による補填の必要性が大きすぎて、逆に「面白い状態」とは言えないと個人的には思う。かといって真実に限りなく近く、想像力による補填のしどころがほとんどないような状態は、往往にして面白くない場合が多いとも思う。

ありのままの現実を受け入れまくることができて、それをそのまま楽しむ能力がある人もいることも事実だとは思うが、いるとしたら自分にその能力はほとんどないだろう。しかし他方で、自分からそういう風に見える人は「無意識的に面白い要素だけ抽出」し、自分みたいな人間が面白くないと思ってしまう原因を「無意識に排除する」能力が長けているだけなのかもしれない。とも思ったりする。たとえば自分はサッカーが下らないと思うのだが、その原因である「球を蹴っているだけだから」というつまらないファクターを無意識に排除し、やれ戦術だやれ選手やチームの特徴だという面白さを追求することができる人なのであろう。しかし自分にとってはただ球を蹴っているだけである。球を蹴っていることの楽しさも理解はできるのだが、今の世界におけるサッカーは「球を蹴ることを楽しむちょうどいい規模を逸脱してしまっている」ような気がする。と、このように、自分の脳はサッカーを肯定的に受け取る方向に考えるようには出来ていないようだ。

逆に考えれば、単純に自分の脳はそういった思考の遊びが楽しいように出来ているのかもしれない。自分の遊びの方向が球蹴りには向かず、思考を小手先でこねくり回すことに嗜好性を感じているというだけのことなのかもしれない。この遊びは体の衰えや周りの環境に左右されずやり続けられる気がする。と、このように自然と肯定的に受けとめられている時点で、きっとそういうことなんだと思う。

おかん

母の日だけど、母に何かをプレゼントしようなんて発想が湧いてくる気配もない。ましてや手紙だなんて一行も思いつかない。母親のことを考えると色々と腹の立つ思い出は想起されるけど、かといって今現在強い恨みを抱いているというわけでもない。ただ単純に母親という感じがもうしないだけだ。自分のことばかり考えていて子供っぽく、「母性とかあるの?」と聞いてみたときに「あるよ!」と元気に答えられた時は驚いたくらいだ。自分が自立して距離がかなり離れたら母の日とかいう発想も湧いてくるのかもしれないけど、そんな自分と今の自分の距離が今はかけ離れている。

母親という概念について考えると、寺山修司の「田園に死す」における母親。アレハンドロ・ホドロフスキーの「サンタ・サングレ」における母親。ひいては「ダウンダウンのごっつええ感じ」におけるマーくんの母親など、切ろうとしても切り離せない母親に対する執着みたいなものが自分の脳裏にはよぎる。しかしそういう執着の正体は実は自分の抱いているものと同質のものなのかもしれないとも思ったりする。母親という概念と現実の母親との乖離。母親が求める息子の自分と現実の自分との乖離。そういう上手くいかなさという点においては自分も執着し、されている部分が認められるのかもしれない。しかし逆に考えるとこの噛み合わず上手くいっていないことがなによりも、作り物でなくて現実の親子の証拠という見方もひょっとしたらできるのかもわからない。

今日夢

高くて立派な杉が生え揃っている山奥の博物館の駐車場。50すぎた女と70に満たない男が業務を終えて事務室に帰ろうと歩いている。男は言う。

「いやいや、これが本当に乗せられたってわけじゃなくて、一目見た瞬間に運命を感じたのよ。村越さんには止められたけどさ、あの人はほら、あれだから。でもほんと、『今買わなきゃ』って思ったわけね。別にあんなとこ行きたかったら行けるわけだから、いくらだって考える時間は持てたんだけどさ。まあでもやっぱり直感ってのは信じるべきだね。現に今でも後悔してないもの。」

女は答える。

「いいじゃない。あんた。それはもう買っといて正解。あたしもそう思うんだから平気だって。でもあたしも年してきて『杖欲しい』って現実問題思うようになってきたけど、杖に80万円出すっていうのは男の人の考え方だね。あたしなんてその辺にあつらえの棒落ちてたらそれでもいいくらいだもん。」

女は自分で言いながら、自分で大笑いしている。男も合わせて笑っている。

「せんちゃんはまだまだ杖なんていらないでしょ。まだそんな年してないのに、何言ってるんだか。俺がせんちゃんくらいの歳の頃なんてもう、樋本さんにまあこき使われて、杖なんて言ったら『またお前は』って言って、本当にもう。」

「まあいいじゃないほらほら。今日も持ってきてるんでしょ。早く見せてよ。あたし知らなかったよそんな格好いい杖あんたが使ってることなんて。」

2人は事務室に到着した。日は今にも暮れそうだったが、まだ暮れずに立派な杉と博物館の裏手を照らしている。

ラーメン屋

先週彼女とデートしてたらさあ、まあその日は軽くメシ食っただけだったんだけどさ、なんか唐突に「そういえば私他にも男できたから、あんたも浮気していいよ」とか言い出しやがったのよ。信じられるか?「は?」って話だよな?お前それ、それだったら浮気相手の女をあてがってくれないとフェアじゃないだろっつう話だよな。そりゃあお前はゆっくりこつこつ隠れて他所で愛を育んでたかもしれないけどさ、こっちはそういうつもりで営ませてもらってませんからね。そんな急に浮気しろって言われたって、そんな相手いるはずないっていうか、そもそもそんな願望を抱きようもないっていうかね。いや全然その界隈の事情は知らないんだけどさ、禁断の愛ってそんな感じで始めるようなもんじゃないようなイメージもあるからさ。なんか逆に「浮気しろ」っていうことで浮気を食い止める一定の効果があるんだなあって、現実で言われて初めて気付いたくらいのもんだよね。でも相手はそんな抑止力として言ったつもりは少しもなくて、ガチだっていうね。だからあいつの言ってることはもうめちゃくちゃだね。狙いがわからんわ。あったとしても、やり方がアホですわ。自分の罪悪感を減らしたくて本当に浮気してほしいなら女の1人も用意すべきだし、自分がどうしても浮気したいなら黙ってやってろっていう話でね。どういう反応を期待してたのか分からんけどさ、その場では俺も狼狽して「じゃあこれから忙しくなっちゃうなあ」なんて冗談言って、お会計して、帰って、風呂入りながら歯を磨いて、水飲んで、寝るしかないよね。多分あいつの想定してたことは何一つやってないんじゃないかな。まあとどのつまり俺が思ってた以上にあいつの頭が悪かったってだけの話なんだよな。まあ長くなっちゃって申し訳ないけど、前置きはこの辺にしといて、お前の知り合いでちょうどいい感じの女の子とかいないの?いたら紹介してくんない?

蛇の背中

人参の色と黒人の肌の色の中間のような色の地面が広がってる。地平線のようなものは見えるが、俺の目がおかしくなってるわけでなければその先にも地面は続いているようだ。俺の記憶にある地球は球形だったが、ここは筒状なのだろうか、蛇のように伸びていっているんだと思う。蛇が伸びている方向に歩いていくのは気が遠くなってしまうが、蛇の断面の円に沿うように歩いていくのも相当時間がかかると思う。ここは形こそ蛇のように見えるかが、そもそもが広漠な大地なのだ。海や川や、たとえば建物が視界にあれば俺はなにも考えずにそっちへ歩いていくことができただろう。しかし、今の俺に提示されている選択肢は蛇の断面の円上を回って行くことか、蛇の頭か尻尾を探しに行くことなのである。それが何か意味を持つ行動なのか、とても俺には判断できない。判断するにも用意されている材料が少なすぎるのだ。俺が今いる場所が背中なら、お腹の側に何かあるかを確認しに行くことが手っ取り早いのだろうけど、そこに何もないことを確認してしまったら俺の目の前に広がる砂漠の広さは何倍にも広がってしまうような気がしてならない。今現在俺の身に迫っている危機こそないが、かといって何か希望があるわけでもない。となると、蛇のお腹に広がる色鮮やかで入り組んだ世界を夢想しながら蛇の頭を目指して背中を歩くのが、俺にとっては最善の選択なのではないだろうかと思えてくる。どのみち俺はここにいつまでも留まっていられるわけではないのだ。なにかモチベーションを作り出し歩を進めるしかないのだから、一歩目を踏み出す理由を思いついてしまった俺に残された選択肢はきっと、一歩目を踏み出すことしかないんじゃないだろうかと思う。現に踏み出すことを最終決定するより先に、俺の足は脳が決めた「前」に向かって歩き始めているじゃないか。俺が次に何かを考えるべきなのはきっと、この足が何か理由を求めてきた時なんじゃないだろうかと、今の俺はなんとなく思う。

しかしかしかし

嫌悪感に付随する自己陶酔の正体が知りたい。厳密に言うと、知りたくはない。しかし嫌悪感には自己陶酔がある気がしてならない。まず潔癖症を変にアピールするやつは、なんかかっこつけている感じがする。手すりに触らない事なんて実際問題何1つ格好よくはないが、それを言っている本人はなぜか得意気だ。手すりなんてなくて生きていけるという表明をすることにより、手すりありで生きていく人間よりワンランク上ということになっているのだろうか。しかし自分は嫌悪感の中の自己陶酔に批判的なわけでもない。ただ単純に不思議で面白い現象だと思っている。

しかしちょっと考えた結果、嫌悪感による自己陶酔は少し子供っぽい自己陶酔のような気もしてきた。ちっちゃい男の子が女の子にベタベタされた時に「やめろよ」とか言うところに原点があるような気がしたからだ。自分も子供だったらそんな感じのリアクションをすると思うが、内心では全然やめて欲しくないこともまたハッキリと言える。しかしそう思ってみても、そういう反応をやめられる気もしない。やっぱり皆がありがたがるものを拒絶するっていうのは、なんだかかっこいい感じがしてしまうのだ。