ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

鋭角

次のコーナーはなんであんなにも鋭角なんだろう。

順当に行けば相似になってるはずだったってのに。

出てきた地中に鳥たちがなんか集まってきている。

こっちの仕事はまだまだこれから大変だってのに。

そもそもどうしてこの畑こんな変な形なんだ。

正方形か長方形なら簡単だったのに。

右側の車輪止めれば右に、左を止めれば左に曲がる。

それだけをずっと繰り返したのに次のコーナーはあんなに鋭角。

GO

業というのはすごい概念だと思う。

子供に対して「悪いことをすると来世で悪いことがあるからやめろ」と戒めている事はなんとなく知っていたし、直感的にも分かりやすい。しかし業のメッセージはそれだけではないことに、自分は最近になってようやく気がついた。それは業という概念が、大人に対して「持って生まれた人生のポテンシャルが違うんだから仕方ないよ」と慰めてくれている側面だ。

人間努力で結構なことがどうにでもなることは否定しないが、どうにかなっている人間を目の当たりにすることは少ない。周りを見ても大抵、想定内の振り幅で幸せになったり不幸になったり、能力を発揮したり挫折したりしている。その振り幅の規定が業であり、自分のように大した業のない人間が業のたくさんある人を見ると「難儀な人だなあ」と思うに留まる。

それだけにやっぱり業から解き放たれたように(大抵作品を介して)見える人間を見ると、果てしなく羨ましく見える。そういう人は作品の中に業から解き放たれた自分を創造しているに過ぎないのかもしれないが、そうだとしてもその能力があることが羨ましく思えてくる。ちっちゃい業の中で充足感見出せない点を考えれば、自分も人一倍に業が深いことは確かだと思う。

書きながら寝たやつ

世の中には生活ができなきゃできないことが多すぎると思う。自分は生活するのが苦手なので、不自由な思いをしている。それでも時代的に仕方ないかなとも思っているけど、そろそろ生活なんて苦手でももっと伸び伸びと暮らしていけてもいいとも思う。何をするにも生活が上手くできることに越したことはないというのが現代だ。自分は生活が苦手ということで基本的に自信はないが、生活が苦手なのにそのまま生きている点においては自信も多少はある。自分がデリケートな生き物だったら、すぐに死んでいると思う。

自分は生活が苦手だと思う理由は、理想の生活が存在しないことが1つあると思う。例えば「あの映画が観たい」とか「あそこの何かを食べてみたい」とかいう目標みたいなものがあっても、その間のことはどうでもいい。土の上でも別にいいし、埃をかぶってても構わない。理想がわからないのだ。

その生活を維持するためにその生活を続けるというのは、どういう理屈なんだろうか。

悪尼尊

アニソンど真ん中という感じのアニソンを聴くと、たまにすごく感銘を受ける。日本人にしか辿り着けなかった音楽の、極端な領域に触れた感じがしてその凄味に感動さえする。アニソンという枠組みを創造し、その中で様々なジャンルから要素を取り入れて構築している様は圧巻だ。全てのベクトルが無駄なくアニソンという目的に向かっている感じにカタルシスを覚えたりもする。

しかし情けないことに、自分は「このアニソンが好きだ」と他人に言う度胸はない。それさえあればまっとうなオタクとして、そういう人たちと仲良くしていけて、そういうコミュニティで楽しく生きていけたんだろうが、自分はアニソンを誰か他の人と聞いたりするのは絶対に恥ずかしい。これからもアニソン鑑賞は、1人の世界での趣味の1つ以上の物には絶対にならない。

やはりそこにはアニソンの持つポルノ的な要素が起因していると思う。アニソンの凄味というのは結局ポルノなのだ。「いかに気持ち良くなるかという一点に向かい、衆目も気にせず突っ走った極致」という決めつけを、自分は聴きながら勝手にしているのだ。簡単に言うと、「よくぞこんな境地に達するまでに、一度も周りを見なかったな」というところに結局、感心しているだけなんだろうと思う。

バランス

おっさんは単純だ。そのおっさんがどんなおっさんかすぐ分かるように出来ている。そのおっさんの単純性の原因は、逆を考えることによってすぐに分かる。複雑なおっさんはみっともないのだ。

葛藤したり、停滞したり、見失ったりするのは遅くても30までしか許されない気がする。少なくとも自分は、葛藤するおっさんなんて見たくない。もし葛藤するおっさんがいたら、自分はその場所からなるべく早く離れたいと思うはずだ。おっさんは葛藤するにしても、普段の単純性の中に葛藤を垣間見せるくらいの渋さがないと格好がつかない。普段の分かりやすいおっさんがどんなに情けなかったり格好悪かったりしても、それを貫くことにより滲み出る渋味みたいなものはきっとあるはずだ。周りの全員に分からなくても、それを貫く意味は本人にとっては絶対にある。しかしその理解されなさみたいな部分を粒立てると、おっさんの悲哀という趣になってそれはそれで気持ちが悪い。そんなネガティヴな捉え方はおっさんの為にも辞めた方が良さそうだ。

世の中を少しでも単純にしようとしている世間のおっさんの気付きにくい努力は素晴らしいものだと思う。全員がおばさんだったら複雑さがキャパオーバーしてすぐに世界は破綻するはずだ。おっさんの極意の片鱗に触れることに成功した自分も、なるべく早く手近な単純性を見つけて、無駄な角をとっていきたい。

今日の夢

今日は地元の学校の体育館に地元の皆が集まる日です。僕の家からは僕が代表として体育館に来たんだけど、時間を間違えて二時間も早く来てしまいました。体育館には鍵がかかっていたので、体育館の外で座って待ってたんですが、集合時間の15分前になったらようやく係りの人が来て、扉を開けてくれました。

僕は立ち上がると、手のひらに違和感があることに気が付きました。見てみると、ずっとゴツゴツした石の上に座って待っていたせいか手のひらに型がついてボコボコになっていました。それに驚いている様子を見て、係の人は「跡ついちゃったねぇ。そんなに長い間待ってたの?」と、話しかけてくれました。

僕の手のひらのボコボコは集会の間ずっと消えず、同級生の女の子や、一年先輩の真面目そうな男の子や、お父さんと一緒に来ていたちっちゃいやんちゃな男の子や、初めて見たおじいさんに見せてあげました。みんな少しだけ驚いてくれました。同級生の女の子が「ちょっと触らせて」と言ってボコボコを触ってきたとき、僕は少しドキッとしました。待っている時間は退屈だったけど、早めに来てよかったと僕は少し思いました。

私の脳みその綿

脳みそは昔は透明で澄んだ水だったと思う。そういう実感は無かったけど、今思い返すとそういう脳みそ像が想起される。今自分の脳みそには目が細かい綿ががっかり詰まっている。これでは水温がさがらず、外からの情報もありのままインプットできない。自分はこの綿を取り除きたい。「取り除きたい」というのが自分本来の欲求で、「取り除いてはいけない」というのが、綿側の要求だと思う。後から来たくせに「俺を取り除いてくれ」なんていうのは、おかしいと思うからだ。

それぞれの言い分はこうだ。脳みそ側は「もっと澄んだ目で世界を見た方がいい」と言っていて、綿側は「せっかく何年もかけて出来た綿を経ての観点を取り除いてしまってはもったいない。澄んだ視点なら、なんとなく分かるだろ。」という具合だ。

自分は別にどっちでもいい(急いで取り除く理由もない)感じなのだが、気になるのが上の主張がそれぞれ、それぞれによるものなのかどうかだ。あと彼らの言い分とは別に、綿を取り除いたらなんとなく、馬鹿になる気がする。これは本能かなにかの意見だろうか。

外を散歩なんかしていても暖かくなってきたことを肌で感じる。脳みその熱さも気になる季節になってきたということだろうか。