ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

書きながら寝たやつ

世の中には生活ができなきゃできないことが多すぎると思う。自分は生活するのが苦手なので、不自由な思いをしている。それでも時代的に仕方ないかなとも思っているけど、そろそろ生活なんて苦手でももっと伸び伸びと暮らしていけてもいいとも思う。何をするにも生活が上手くできることに越したことはないというのが現代だ。自分は生活が苦手ということで基本的に自信はないが、生活が苦手なのにそのまま生きている点においては自信も多少はある。自分がデリケートな生き物だったら、すぐに死んでいると思う。

自分は生活が苦手だと思う理由は、理想の生活が存在しないことが1つあると思う。例えば「あの映画が観たい」とか「あそこの何かを食べてみたい」とかいう目標みたいなものがあっても、その間のことはどうでもいい。土の上でも別にいいし、埃をかぶってても構わない。理想がわからないのだ。

その生活を維持するためにその生活を続けるというのは、どういう理屈なんだろうか。

悪尼尊

アニソンど真ん中という感じのアニソンを聴くと、たまにすごく感銘を受ける。日本人にしか辿り着けなかった音楽の、極端な領域に触れた感じがしてその凄味に感動さえする。アニソンという枠組みを創造し、その中で様々なジャンルから要素を取り入れて構築している様は圧巻だ。全てのベクトルが無駄なくアニソンという目的に向かっている感じにカタルシスを覚えたりもする。

しかし情けないことに、自分は「このアニソンが好きだ」と他人に言う度胸はない。それさえあればまっとうなオタクとして、そういう人たちと仲良くしていけて、そういうコミュニティで楽しく生きていけたんだろうが、自分はアニソンを誰か他の人と聞いたりするのは絶対に恥ずかしい。これからもアニソン鑑賞は、1人の世界での趣味の1つ以上の物には絶対にならない。

やはりそこにはアニソンの持つポルノ的な要素が起因していると思う。アニソンの凄味というのは結局ポルノなのだ。「いかに気持ち良くなるかという一点に向かい、衆目も気にせず突っ走った極致」という決めつけを、自分は聴きながら勝手にしているのだ。簡単に言うと、「よくぞこんな境地に達するまでに、一度も周りを見なかったな」というところに結局、感心しているだけなんだろうと思う。

バランス

おっさんは単純だ。そのおっさんがどんなおっさんかすぐ分かるように出来ている。そのおっさんの単純性の原因は、逆を考えることによってすぐに分かる。複雑なおっさんはみっともないのだ。

葛藤したり、停滞したり、見失ったりするのは遅くても30までしか許されない気がする。少なくとも自分は、葛藤するおっさんなんて見たくない。もし葛藤するおっさんがいたら、自分はその場所からなるべく早く離れたいと思うはずだ。おっさんは葛藤するにしても、普段の単純性の中に葛藤を垣間見せるくらいの渋さがないと格好がつかない。普段の分かりやすいおっさんがどんなに情けなかったり格好悪かったりしても、それを貫くことにより滲み出る渋味みたいなものはきっとあるはずだ。周りの全員に分からなくても、それを貫く意味は本人にとっては絶対にある。しかしその理解されなさみたいな部分を粒立てると、おっさんの悲哀という趣になってそれはそれで気持ちが悪い。そんなネガティヴな捉え方はおっさんの為にも辞めた方が良さそうだ。

世の中を少しでも単純にしようとしている世間のおっさんの気付きにくい努力は素晴らしいものだと思う。全員がおばさんだったら複雑さがキャパオーバーしてすぐに世界は破綻するはずだ。おっさんの極意の片鱗に触れることに成功した自分も、なるべく早く手近な単純性を見つけて、無駄な角をとっていきたい。

今日の夢

今日は地元の学校の体育館に地元の皆が集まる日です。僕の家からは僕が代表として体育館に来たんだけど、時間を間違えて二時間も早く来てしまいました。体育館には鍵がかかっていたので、体育館の外で座って待ってたんですが、集合時間の15分前になったらようやく係りの人が来て、扉を開けてくれました。

僕は立ち上がると、手のひらに違和感があることに気が付きました。見てみると、ずっとゴツゴツした石の上に座って待っていたせいか手のひらに型がついてボコボコになっていました。それに驚いている様子を見て、係の人は「跡ついちゃったねぇ。そんなに長い間待ってたの?」と、話しかけてくれました。

僕の手のひらのボコボコは集会の間ずっと消えず、同級生の女の子や、一年先輩の真面目そうな男の子や、お父さんと一緒に来ていたちっちゃいやんちゃな男の子や、初めて見たおじいさんに見せてあげました。みんな少しだけ驚いてくれました。同級生の女の子が「ちょっと触らせて」と言ってボコボコを触ってきたとき、僕は少しドキッとしました。待っている時間は退屈だったけど、早めに来てよかったと僕は少し思いました。

私の脳みその綿

脳みそは昔は透明で澄んだ水だったと思う。そういう実感は無かったけど、今思い返すとそういう脳みそ像が想起される。今自分の脳みそには目が細かい綿ががっかり詰まっている。これでは水温がさがらず、外からの情報もありのままインプットできない。自分はこの綿を取り除きたい。「取り除きたい」というのが自分本来の欲求で、「取り除いてはいけない」というのが、綿側の要求だと思う。後から来たくせに「俺を取り除いてくれ」なんていうのは、おかしいと思うからだ。

それぞれの言い分はこうだ。脳みそ側は「もっと澄んだ目で世界を見た方がいい」と言っていて、綿側は「せっかく何年もかけて出来た綿を経ての観点を取り除いてしまってはもったいない。澄んだ視点なら、なんとなく分かるだろ。」という具合だ。

自分は別にどっちでもいい(急いで取り除く理由もない)感じなのだが、気になるのが上の主張がそれぞれ、それぞれによるものなのかどうかだ。あと彼らの言い分とは別に、綿を取り除いたらなんとなく、馬鹿になる気がする。これは本能かなにかの意見だろうか。

外を散歩なんかしていても暖かくなってきたことを肌で感じる。脳みその熱さも気になる季節になってきたということだろうか。

弟の代わりに

今、法事で弟が帰省してきている。兄弟は無駄に沢山いるのだが、仲がいい弟が1人だけいる。その弟に話したことを備忘録しておく。こういうのは本来なら弟が書き留めた方がストーリー性というか訴えかけるものだろうと思うけど、仕方ない。自分の方が覚えておきたいだろうから、自分で書いておく。

①車には強さがある。自分の運転する車もそこそこ大きいが、やはり4tトラックには負ける。正面衝突したらまず自分だけが死んで、4tトラックは無傷だと思う。だから対向車線から来たら、とりあえず腹は括った方がいい。軽自動車には勝てる。バスはデカいけど、なんとなく相打ちくらいには持っていけそうな気がする。4tトラックにはもちろん、10:0で負ける。

②信州サーモンは本来産卵に使われるはずのエネルギーがそのまま残っているので、そのぶん栄養がたっぷりで美味しい。産卵をしないのは養殖だからである。養殖場で泳いでいる信州サーモンから食べられる部分だけを切り取り、また泳がせておいて餌をやることで、その後ふたたび美味しい信州サーモンが食べられるのである。

グレッグ・イーガンの小説が一番面白い。グレッグ・イーガンの小説は現実よりも面白いので、読むと現実に起きること全てが退屈に思える。SF小説は色々教えたがグレッグ・イーガンが唯一、面白い小説を探している瞬間と同じくらい面白い。つまり実際のところは、面白い小説を探している時が一番面白い。映画でも音楽でも同じ。面白いものを探している時よりも、たいていのものは面白くはない。なので同じくらいに面白いグレッグ・イーガンはすごい。

葬式饅頭

俺は共犯者を待っている。厳密に言うと俺が待っているのは首謀者で、俺が共犯者なのだろうか。とにかくそいつの指示を受けて俺は待っている。山のふもとの小さな市営住宅地、老女が1人で暮らす小屋のようなその家の脇の車を停め、首謀者が来るのを待っているのだ。戻って来る気配がしたらすぐエンジンをかけ、ドアを開けて乗せて逃げる段取りになっている。さながら宝石店でも襲っているようでそわそわする。

ここに棲む老女の気持ちも分かるが、こちらにもこちらの正義がある。厳密に言うと俺の正義ではないのだが、俺はこの共犯者という立場には抵抗はない。ひょっとすると共犯者という立場を楽しむことにより、結果として俺が肯定する正義から目を逸らしているのかもしれない。だがもしそうだとしても誰にとって問題が生じるというのだろうか。どちらにも正義があることが確定しているこの状況で、俺の最善の選択肢は第三者として状況を楽しむことだとしか、今の俺には思えない。