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ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

生きた

今日の午前中は仕事をサボった。朝起きた瞬間にクラッときて倒れたからだ。久しぶりに畳に頬ずりした。理由はなんだかよく分からないけど、午前中でも寝ればよくなるだろうと思って寝た。しかし寝てもそんなによくはならなかった。まあしかし実感がないというだけで本当はよくなってるのかもしれないので、仕事には行って終わらせてきた。結局大してよくなってはおらず、ずっと倒れそうだった。ずっと気合いを入れるためにデカビタが飲みたかった。ずっと飲みたかったので仕事が片付いてから飲んだ。この後もう1時間ちょっとは作業があるが、倒れるようなやつじゃないのでどうにかなりそうだ。デカビタは実際に体が欲している物だったようなので、それもよかった。飲みながらデカビタとは思えないほどの充足感はあったのだ。午前中寝てしまったので夜寝れるかが今は心配だ。体調なんてずっと良ければいいのに。死ぬときは死ぬ。生きるときは生きるでハッキリしてほしいものだ。

No気味No谷

日記は自分は他人から見て痛々しいくらいの方がいいと思う。なぜかは分からない。今そう思う。日記でまで他人の目を意識して、かっこいいかかっこ悪いかの賭けをするよりも、自分に対してかっこつけて自分で後で恥ずかしい方がまだいいように思える。それに自分が本当に考えていることっていうのを言葉にするというのは案外難しい。他人から見て痛々しいということは、内面の生々しさをそれだけ出せているということなのではないだろうかとも思ったりする。言って見れば、文章が不気味の谷に落っこちているのだ。ろくに推敲もせずにそこまで気持ち悪くできたら大したもんなんじゃないだろうか。煮詰めて煮詰めて不気味の谷を脱した名文をしたためられたとして、それは果たして誰の為になるというのだろう。それはさすがに格好つけすぎだ。そこまで自分は格好いいと思われたいとは思わない。文章を不気味の谷に突き落とすことを目的にするくらいが時間もそんなに取らなくていいのではないだろうか。それにそもそも自分は文章の磨き上げ方なんかよりも、文章の不気味の谷という発想の方を褒められたい。これは日記を書きながら自然と思いついたということもしっかりと忘れないように書き留めておきたい。

アウトロー

小学生の高学年か中学生くらいに達したときに少しは周りが見えてくると「自分が尊敬されるような人間ではなく、これからもシビアな評価しか受けない」ことに気がついた。世の中の人間たちは自分のことなんて見てないというがそれは厳密には間違いで、実際には見くびられているんだということに気がついた。それはそれで極端な考え方なんだけど、そういったときに羨ましくなるのが、そういう原則的で平等な評価という恐ろしいものを受けない人間のことだ。たとえばそれは障害者であり、同性愛者であり、精神病者である。実際のそういう人を見て羨ましくなったわけではなく、「そうだったらある程度仕方ないなって思われただろうに」という決めつけによる憧れを抱いたのだ。自分が何か出来なかったとしても「努力が足りない」とか「才能がない」とか言われないような気がしたのだ。

そう思った時に自分はまた、同性愛者と障害者をやりきるのは無理な感じがした。なので消去法で精神病っぽくなってみようとした。気が狂った人間がしそうなことをイメージし、1人で色々実行に移してみたのだ。それは自分が中学を不登校しているときだった。

うずくまって喚いてみたり、紙やノートに精神病っぽいことを羅列してみたり、部屋をめちゃめちゃにしてみたりしたのだが、どうにもしっくりこなかった。なんかやってることが薄ら寒いような感じがしたのだ。やっている時は手を抜かず、照れや恥ずかしさを振り払ってやりきっていたはずなのにである。結果的に当時の自分は「世間的に精神病の認識を受けている人間は、この難しい役の演技を洗練させて説得力を持たせるだけの才能のある人」であるような気がした。「何をしている人間が精神病に見えるか」を的確に知っている人のようがしたのだ。結局のところ自分は努力や才能が不足していて、精神病としての評価を受けることもできない人間である現実に直面し、さほど深くではないが落胆した。

オーロラ

うちの周りに山しかないから、地平線とか水平線とか蜃気楼とかいうワードが自然には出てこない。聞くと非現実的で気取った言葉に感じてしまう。大袈裟で安直なキレイなもの、まるでオーロラとかのような表現に思えてしまう。でも実際はさほど大仰な表現というわけでもないんだろうか。海が近くにあれば水平線とかも、現実的な表現として自然に出てくるようになったのだろうか。

水平線はやっぱりでも大袈裟だと思う。地球の輪郭みたいなもんじゃないか。そんな惑星規模の表現が当てはまるような状況なんて、そうそうある気がしない。今はしないが、でもこんな風に水平線をオモチャみたいに扱っていたら、そのうち自分にも手の届く表現になるような気がする。水平線が自分の中で候補に上がったときに、「あー、はいはい水平線ね」という次元で水平線を扱えるような気がしてきた。なのでこれからは隙があれば、水平線をオモチャにして扱っていきたいと思った。

掌に太陽

今日はついに150度まで平気になった。人間の身体というものは実によくできている。こうして訓練することで、耐えられる熱の量は少しずつだが上昇していくのだ。私は来たる刻に備え、最大限の温度で耐えられるように掌を鍛え続け、ついにここまで来た。こういった訓練において一番の心得は、無理は禁物だということだろう。無理をして負傷してしまったら、備えるどころか自分で息の根を留めることになってしまう。ことは慎重に進めるに限る。日進月歩だ。私がこうして最大の記録を達成したことがその証左である。この調子で進めば確実に人類で一番頑丈な掌になるだろう。たかが掌と思う人がいるかもしれないが、そのような人間は得てして何も成し遂げていないものだ。気にするに値はしない。見た目には普通の掌と変わりないが、常人にはない機能を兼ね備えている。その事実を掌を見ながら感じるだけでも私ほ無上のカタルシスを感じる。例え人体の限界温度に漸近していっているにせよ、耐熱性は確実に上がっていっているのだ。その事実が私の目に映る限り、このライフワークを止める訳にはいかない。この機能はもしかしたら一生役に立たないかもしれないということは最初から判っている。しかし、もし役に立つときが訪れた場合に生き残るのは私のみだ。それもまた確実なことであろう。そんな事実を掌を眺めつつ感じるだけで、明日も頑張ろうという決意が私の中にふつふつと湧いてくるのだ。

マイヤミ

「人間の闇」だとか「人間の苦悩」「人間の矛盾」みたいなものを描いた作品がたまにありがたがられてるけど、本当にくだらないと思う。そんなものに感情移入するのは自分の人生をしょうもないものだと決めつけることに他ならず、ありもしない傷をわざわざ作って舐め合う、信じられないほど後ろ向きな姿勢で気持ち悪く感じる。

作品を通じて現実を辛いものとして描こうが美しいものとして描こうが現実なんて微動だにしないし、一瞬動いたとしてもそんなものが定着するはずはないと思う。そういったブームは言い換えればただの一発屋で、その時代の人間がどのくらいバカだったかの指標程度にしかならない。

現実はあるとき突然辛いものになったりなんてしない。気付くか気付かないか程度の問題でしかないと思う。人間の闇とかが好きな人間の思考回路は全く分からないけど、現段階の自分から見ると凄くバカに見えてしまう。胸を抉られるような感覚が好きなのだろうか。自殺の時にドーパミンかなんかが出ると聞いたことがあるが、それと同じような原理なのだろうか。そうだとしたらバカというか変態に感じてしまうが、ただバカなよりは面白くていいと思う。

カルママン

主役が現れれば脇役になれるのに。主役を張れる役者を見たことがない。俺の生活圏内に現れたことがない。自分は諸事情で主役を張るには条件が足りてないけど、主役がいないから仕方なくじたばたしたりしている。主役さえ現れれば心置き無く脇に徹することができる。主役の条件が必ずしもイケメンというわけではないことは短い人生でも理解しているが、イケメンなら主役ぶりやすいことも死ぬほど実感している。「見てくれなんて気にしなきゃいいのに」という感じで接してくるのは大抵美男美女だ。イケメン以外で主役を張るなら恥知らずなバイタリティが必要になる。そういうものは大抵は内在的なものでも外在的なものでも、出生に起因しているように思える。それは先祖から意思の有無に関わらず受け継がれてきた性質であり、それを業と言い換えることもできると思う。

俺は「自分を主役と思い込む能力」も無ければ「主役とかじゃない個人として生きる能力」も欠如しているんじゃないかと思う時がある。俺が楽に力をそれなりに抜いて生きていくには、やはり強烈な主役の出現が望ましい。