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ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

アラナイ

相変わらず祖母の送迎を担当しているのだが、どうやら祖母はずっとガソリンの使用量が気になっていたらしい。長方形の右下から左上に連れて行っているのだが、祖母的には左下を通るルートの方が近く感じるらしい。おそらく通りが大きくて通行量も多いから、なんとなくそう感じるのだろう。実際の距離はほとんど変わらないし、信号が多いので自分はあまり好きではないのだが。

自分は右上を経由するのどかな田舎道ルートの方が祖母感が強いのでずっとそっちを通っていた。しかし祖母を乗せてそこを通るたびに、祖母はガソリンを無駄に使っているということでストレスを感じていたのである。

これからは祖母の思う最短ルートで行こうと思う。自分が少し回り道をして変わった景色を見せてあげようと思っている時も、祖母はガソリン代のことが気になって気が気ではなかったのだろう。なんでこんな道を通るんだと、やきもきしていたのだろう。

妄想文化

・エモーショナル手話

音楽に乗せ、情感豊かに手話を表現するパフォーマンス。見にくる客の過半数は手話を理解していないが、「意味が込められている」という裏付けが含まれているという深みを持った舞踏のような雰囲気に圧倒されている。有名なアメリカのアーティストのミュージックビデオに採用され、一般的な認知度が増した。そもそもの始まりは「耳の聞こえない人にも音楽をより楽しんで欲しい」というものだったが、地位を確立していくにつれて音楽的な要素は薄れ、公演に行くと無音のパフォーマンスも多い。しかし筆者はこれに対し、「耳の聞こえる人に『耳の聞こえない人の為だ』ということを過剰に伝えている」ような印象を受けるためあまり肯定的ではない。耳が聞こえない人からしたら音が鳴っていようと鳴ってなかろうと関係がないからである。

うたた寝の夢

真っ暗な田舎道を運転している。この試みを始めたころの僕はなにか非日常を感じたかっただけなんじゃないだろうか。自信はないがおそらく、その彼はもう満足して寝入ってしまっている。取り残された僕はただただ、今は早く帰ってお風呂に入りたい。

真っ暗な田舎道は、真っ直ぐな分は問題ないのだが曲がる時に難儀する。道が狭くて一発でクイッと曲がる事は難しく、切り返し切り返し曲がらなければ何かに擦ったりどこかに落ちてしまう危険がある。かといって街灯もないから、フロントライトで一度見た自分の記憶と、かすかな傾斜を感じ取る自分の平衡感覚に大部分を委ねなくてはならなくなる。

僕はいつも細心だが、僕の気まぐれで連れてきた非日常が気まぐれに僕へ気まぐれを分割払いしてくれるため、不意に総毛立つのを僕はその都度梳かしていかなければならない。

この下り坂を下りきれば大通りに合流できるのだが、僕の目がおかしくなった訳でないならばなにやら赤いランプが点滅しているのが見える。僕の早まる鼓動を抑えながら赤いランプとすれ違ったが、検問かと思えばただそこで重大事件が起きただけのようだった。なにやら夏祭りに来ていた子供たちを沢山集めて連れ去ろうとした輩がいたらしい。

「びっくりさせやがって。俺の好奇心が不名誉な銘を打たれるところだったじゃねえか。」赤ランプを通り過ぎて十分な距離をとると、僕の優しい非日常は外に向かって声を荒げた。その声とすれ違いに入ってきた夜風の気持ち良さに今更気が付き、僕は情けなくて自嘲した。

上を向いて歩こう

土手を散歩していたとき、空を見上げながら歩いていると疲れる感が減ることに気が付いた。その時、自分は「地表を見ながら歩くと自分がどれくらい進んだかを無意識にも感じながら歩いているんじゃないだろうか」と思った。

地表を見ながら歩くのがベクトルだとすると、空を見上げて歩くことによって「今まで自分の歩いた量」というスカラーを意識せずに済むようになるんじゃないだろうか。

しかしこの裏技は真っ直ぐで平坦な土手でかつ、誰も通らないような時間じゃないと危険だという欠点を持っている。下手に試すと、スカラーを見て見ぬふりした線の先に想定外のピリオドを打つ事態になりかねない。

つまらない本

今まで自分はそんなに多くの本を読んでいない。読みたい本はいくつもあるのだけど、読んだ本がつまらなかった時の徒労感がトラウマのようになっていてポジティブな気持ちで本を読みはじめられない事がそれほど読んでいない理由の一つなんじゃないかと自分で思う。そのトラウマを植え付けた本を二つ書き留めておこうと思う。

一つ目は中学生の頃に読んだ「探偵ガリレオ」みたいな名前の本だ。作者は当時から勢いのあった東野圭吾。話題の作家ということもあって知的好奇心の有り余っていた当時の自分はワクワクしながら読んでいた。が、結果としてはつまらなすぎて最後まで読めなかった。科学の知識を活かして推理する。みたいな話だったが、トリック云々の前に話が面白く無かった。主人公の天才もなんだか面白みのない人間だったような気がするし、とにかく読み進めるのが苦痛だった。お小遣いから定価で買ったにも関わらず、最後まで読むことすらできなかった。

二つ目は高校生の頃に読んだ「アルジャーノンに花束を」。当時SFに興味を持ちはじめていて、三つ目くらいに読んだSFがそれだった。これは最後まで読めたのだが、読後感は単純にイライラした感じだった。自分の読解力が足りなかったのかもしれないけど、結局「天才になると愚民どもはバカに見えるけど、女の体だけは最高だぜ」みたいな話だったように、当時の自分は感じた。まあその主張は一理あるとも思うけど、偉そうに言われるとどんな主張も腹がたつものじゃないだろうか。

結果として自分は、主人公が天才の話をバカが書いたものが嫌いなんだと思う。物語を紡ぐのは自由だが、自分のキャパを理解せずに語るのはみっともないものだ。これ以上知的好奇心にトラウマを植え付けないためにも、これからの作家さんたちには自分の手に負えない話は最初から書こうとしないで欲しい。自信はないけど、その教訓は自分の日記にも反映されてるんじゃないだろうか。しかし作家のそういう側面に拒否反応を示すことが同族嫌悪のような気も、実は少しする。

フロントインオーガニック

今の自分がみんなを納得させるように前向きになったらどうなるのだろうか。

まず体つきは引き締まる。今はたるんだ体型をしているので、まずそこを直さないと前向きとは認められないだろうと思う。贅肉をこそげ落とし、程よい筋肉を全身に付けることがまずスタート地点だと思うり

次に社交的になる。人との関わり方にも問題があると思われてると思う。しかしこの社交的というのは自分の身ひとつで成立し得るものではない。分かりやすい趣味。説明しやすい職業。あと流行に関する最低限の造詣があると、よりスムーズな会話が成立しやすくなると思う。分かりやすい前向きさとしてはそれらも備わっているといいと思う。

次に彼女をつくる。これは分かりやすいと思う。彼女と建設的な関係を築いているというのは、前向きポイントが非常に高いようなイメージがある。彼女について聞かれたときに言いよどんでいたようでは、他が完璧でも一気に前向き感は減ってしまう。

これだけ揃えばあとは簡単。それ以外の物を全部捨てれば良いだけだろう。前向きにおける不安要素は捨てておきたい。前向き要素だけで満足しないような業の深い人間は前向きそれ自体が目的ではなく、何かを得るために前向きぶっているように見えてしまうような気がする。

こんな人間ならどこに出しても恥ずかしくはなくなるんじゃないだろうか。SNSでも恥ずかしくないし、親戚の集まりでも完全に恥ずかしくなさそうな気がする。プレ前向きである自分からすると、なんだか薄っぺらい人間のように思えてしまうが、前向きになろうともせずに前向きを軽視すること自体、前向きから見たら薄っぺらいことなんじゃないだろうか。

しかしこうして羅列してみるとどれも大して頭も使わなそうだし、いつだってなれるんじゃないだろうか。普段無駄に稼働している脳のスイッチを強から弱に入れるだけでいいような印象を受ける。一度簡単に整理しただけで、前向きに関して少し前向きになれたような気がする。前向きに関して前向きな時点でもう、前向きポテンシャルはなかなかのもんなんじゃないだろうか。いつでも前向きになれると分かった以上急いで前向きになる必要もなさそうなので、もうしばらくは前向きに関して前向きな状態で過ごしていこうかと思った。

理性の本能

日本においては大柄に分類される体格をしているけど、役に立った試しが一度たりともない。昔から理屈っぽく、理屈がすべてだと思って生きてきている。子供の頃、親や親戚は武力をもって「理屈が全てではない」と教えようとしてきてくれた。理屈がうるさすぎることによって母親の妹の旦那さんに羽交い締めに押さえつけられたことがある人間はそれほどいないのではないだろうかと思う。しかしその教訓を自分の脳は理屈で処理して、結果こんな威嚇的な体格にしてくれたのではないかと思うこともある。

長年理屈を標榜に掲げて生きてくると、理屈のダメなところも当然見えてくる。理屈は当の理屈自身のことさえも組み伏せることが可能なのだ。たとえば他人と話している場合は、最初に打ち出した理屈にほころびがあるとそれを補填する為の少し無理な理屈を捻出しなければならなくなる。そういった苦労は正直いって不毛だ。というかそもそも考えてみると、理屈そのものが何も生み出さず不毛な場合が多いような気さえする。しかし残念な現実を合理化する為に人より多めの理屈の処方が必要だったことも事実だとは思うし。それによって自分の精神が概ね、これは自分基準でだが、概ね均衡を保ちながら生きてこれたのも事実だと言えると思う。理屈は未来のことに言及していたとしても未来の為であることはほとんどない。理屈は専ら過去の尻拭いをさせられている苦労人なのだ。せめて自分だけでも、これからも理屈に寄り添って生きていこうと思う。たとえ片思いだとしても理屈に孤独な思いをさせないように、裏切らないようにして生きたいと思う。