ほかほかしっとり

思ったよりほかほか

他人事

一年ほど前に隣町のほとんど関わりのない農家の息子が自殺したらしい。その農家はたくさんの外国人をお手伝いに入れてて、大規模にある一種類の花を栽培していたらしい。自分は自殺するつもりも予定もないし、詳しい状況など知らないし、境遇も全然ちがうけど、その話を思い出すたびに他人事とは思えない。

ネットをフラフラ見ていたとき、「ニートにありがちな家庭環境は過干渉の母と無関心な父」という特に根拠のない情報を見かけた。正直自分にはあまり当てはまらないし、ニートというわけでもないけどなんとなく「わかるかも」と思ってしまったし、他人事とは思えない。

「ヒモになりやすい男の特徴!」みたいな下世話なウェブニュースを見た。「目標が低い。」「割り勘や、おごられることをなんとも思わない。」などの項目が自分に当てはまっていた。しかしヒモになんてなりたいとも思わないしとてもなれるとも思えない。とはいえなんだな他人事とは思えない。

たった今ニュースで、ハトに餌をあげ続けて逮捕された人のことをやっていた。「自分が餌をあげるのをやめたらハトがひもじい思いをするということなのであげ続けていた。もうしません。」と言って懲役6ヶ月になりそうらしい。これはもう1mmも自分とかぶる部分はない感じがするのだけれど、なんでだろう他人事とは思えない。

今日の見た夢

記念だし、こんなとこもう来ることもないだろうから記念になんか買っていってやろうと思ったのに、なんなんだこの強気の値段設定は。思い出の危険とはいえ手が出ないぞ。手造り雑貨ってもっと手の届く値段のイメージを勝手に持ってたけど、下手なブランド物より高いじゃないか。ちょっと売り場を移動してみよう。もしかしたらここはなんかしらの特別なコーナーなのかもしれない。

えっとここは、漫画コーナーだろうか。でもこれは、なんか私物っぽい気がする。ということは、売り場はあそこだけということか。これはどうしたことだろう。さっきの場所に戻ったらもうなにか買わないと。使うものならまだしも、全部安くてもいらないんだよな。

「これ、どうですか!スマホスタンド!」

「え、どれ?そんなのあった?」

「これ!」

彼女が手に持っているのは、確かに黒くて変わった形をしたスマホスタンドだった。さりげなく値段を見てみて驚いたが、値段もかなり妥当だ。もうこれを買おうとは決まっていたかど、一応どういう意匠なのか聞くと、思っていた以上に長々と説明してくれた。

「また近所に来たら寄るね」

「待ってますよー」

と、軽い挨拶を交わし店を出る。ごちゃごちゃした住宅街の一角はもうすっかり暗くなっていた。彼女はわざわざ外までお見送りに来てくれ、見えなくなるまで手を振っていた。

猛省

自分はあまり反省をしない。これがまず1つ反省すべき点なのだけど、最近なんとなく反省した方がいい感じがするのが、すぐに人を馬鹿にしたくなることだ。ほんのちょっとした揚げ足でもとって、どんどんそこから話を広げていきたい。可能なことならそれを本人に伝えたい。なぜかというと、面白いと思うからだ。悪意は1%も含まれてはいない。そこからどんどん話を広げていきたい。たとえばそこに「相手より優位に立とう」みたいな野心などの不純物はない。むしろそこから仲良くなりたい。いい人だったら仲良くなりたい。悪い人だったら分からないが、とりあえず伝えないだろう。例えばあげつらってなじって屈服させたとしても、特に自分は楽しくないと思う。それに普通に、屈服させるほどの強さも、そんなことに向けて頑張る気力もない。それが骨折り損でしかない事はなんとなくわかる。しかし、かといって、いい人にももちろん実際に伝えたりはしない。揚げ足をとられるというのは、一般論的には気持ちのいいことではないと思っているからだ。そんな捻じ曲がったコミュニケーションの取り方をするくらいなら、黙っていようとついつい思ってしまう。あと、揚げ足をとりあうのが好きだと思われて自分の揚げ足もとってこようとしてこられたら最悪だからだ。なぜかというと、そういう人はいい人なので、あまり揚げ足を取り慣れていないからだ。加減が分からずただ痛いところを突いてしまったり、逆に的はずれな指摘をしてしまうからだ。そういう優しさは結局こちらの負担になる。なので大抵の場合は黙っていたらいいかなという感じになる。

人の揚げ足をとるというのは自分の中では冗談を言うくらいのフランクなところがあるのだが、他人にどう受け止められるかは分からない。それなら普通に冗談を言えばいいのだけれど、それはそれでかっこ悪いので気は進まない。なぜかというと、自分の冗談は非常に平和だからだ。これも1つの自分の特徴だと思う。老人や子供が喜ぶような優しい冗談くらいしか思いつかないのだ。若々しいコミュニケーションといえばやはり毒気がないと始まらないような気がして、優しい冗談を言うという発想自体がそもそもないのだ。

しかしこうして考察してみると、結局自分の優しさが仇になってしまっているのかとも思い、深い反省には至らない。黙っていることも褒められた態度ではないと言えばそれまでだが、自分は触らぬ神に祟りなしという言葉の側に立ちたいと思う。結局自分の行動は独善的な優しさに依拠しているということなのかもしれない。しかし結局、優しさに貴賎なしという感じで自分の中では片付けられてしまうので始末に負えない。

ノー人生ノーライフ

人生訓みたいな臨床データもなければ統計データもない勝手な理屈で導かれた道徳は利己的なものでしかないということを人類はもっと理解すべきだと思う。間違ってもそれは他人に押し付けられる性質のものじゃないし、そんなものにすがっていることは少なからず恥じるべきだと自分は思う。

あと自分の思考を過信しないこともいい加減覚えた方がいいと思う。無知の知だとか昔の人は言っていたが、それくらい中学生でも習うことだといって軽んじられてはいないだろうか。中途半端に無知の知だなんて概念を齧ってしまっている人間は無知の知の知を再考すべきだと自分は思う。人間がしゃべることなんて、ほぼ全部受け売りなんだから、その元ネタは潤沢な方がいいと思う。勉強するのが邪魔くさいと思う気持ちは自分にも分かるので、せめて無知なことを開き直らずに恥じる姿勢を持つべきだと思う。

自分のしょうもなさを晩年振り返って「あの頃は若かった」だとか言う人生なのだろうか。そんな人生がそもそもしょうもないと思う。自分の人生に何も障壁がなかったというコンプレックスも理解はできるが、だからといって一生馬鹿のままでもいいものなのだろうか。今の自分にはもうその気持ちまでは推し量るに余りある。

SNSひょう

SNSの使い方も男性性、女性性というのは表出していると思う。自分が登録しがちなSNSに限った話かもしれないけど、最近特によく感じる。

まず自分の思う男性性は、1.カッコつけたがる。2.もしあまりカッコ良くない事実があるならその言い訳をグダグダと言う。3.よく分からない正論みたいな、格言みたいなやつを言いたがる。4.女の子に媚びる。こんなところだと思う。正直わかりやすい。AIに追いつかれるのはすぐだと思う。こうして並べると自分もバッチリと当てはまりがちだが、意識して自制している節もある。

女性性は正直箇条書きにはしにくいし、箇条書きにするとなんか批判のようになってしまいそうに感じる。というか、男性と違ってSNSにおける女性の振る舞いと現実での振る舞いはほとんど変わらないんじゃないだろうかとも思う。現実においてもSNSにおいても、演出が徹底している。男性はすぐ馬鹿馬鹿しく感じてしまうのか、詰めが甘いのだ。「こんな金にもならんこと」とすぐに投げ出してしまう。SNSでの活動がお金に直結するようになってきた昨今になってようやく、自己演出のクオリティが上がってきてるんじゃないかと思う。

それにしても、なんだろうこの雲をつかむようなSNS評は。自分は脳の何かが欠如しているのか、昔からSNSの使い方がしっくりこないのだ。頭の悪い人ほどなにも考えず使って、中途半端に頭のいい人ほど下手なことを言わないようにする傾向のあるSNSの世界を額面どおりに捉えてしまいがちで、「こんな馬鹿ばかりのはずがない。」といつも感じてしまうのである。自分も頭はさほど良くない自覚があるのでなにも考えずに使うようにしているのだが、それで上手く行ってないということはやはり自分は頭がいいということなんだろうか。

すぽこん

スポーツマンへのコンプレックスはどうしたら解消されるのだろうか。これはおそらく自分の人生のテーマの1つなんだろうけど、正直こんなテーマはかっこう悪くて嫌だ。

自分が最初に習っていたサッカーは友達関係が上手く行かず辞めたが、正直そもそも向いていなかったと思う。結構な期間やっていたのにリフティングとかすら出来るようにならなかった。

次にやった水泳は個人競技で、ひょっとしたらまあまあ向いていたのかもしれない。しかし続けるモチベーションが湧かず辞めた。そして別になんの後悔もしていない。

その次のバスケは1番向いていなかった。「身長あるから有利なんじゃないか」なんて安直な考えを持った自分は本当に愚かだった。

小学生の頃、マラソンを学校が推していて、無闇やたらに走らされていた記憶がある。その頃は周りと一緒に特になにも考えず走っていられた。中学に入ってから「走る意味」に意識が行ってしまったのだが、その時点で衰え始めていたということなのだろうか。

周りの友達がみんな続けられていたバスケ。根性が足りず自分だけが続けられなかった事実は、その後の人生にとって少なからず痛手になったような気がする。「バスケ部だった」と言われたら、自分は心からその人を尊敬することが出来る。

そんな風に他人を尊敬出来ることはもしかしたらいいことなのかもしれない。しかしだからといって卑小になっていては良くないような気が、なんとなくだけどする。しかし例えば俺のなにかを元バスケ部が認めてくれて尊敬してくれたとしても、自分の卑小さは変わらないような気がすることも実際問題として事実だ。

サッカー少年だった時代から、結局スポーツの地位に納得していないという事なんじゃないかと思ったりもする。スポーツすることがいいことだということに異論を持ったことはない。しかし現代のスポーツは過大評価のような気がずっとしていることもまた自分の中では揺るぎない。

サッカー少年だったかつての自分がこんな歳になっても未だに、「ただ球を蹴ってるだけじゃん」と言い続けて聞かないのだ。

音楽料亭

最近他人を載せて運転させられることがよくある。どうやら自分の役割になったようだ。自分は安全運転至上主義という名の小心者なので、運転についてはいつも通りやっておけばまず問題ないことは分かっている。しかし一人で運転してる時と一緒だと少し違和感を禁じ得ない要素が1つある。車内のBGMだ。

自分一人で運転しているときと同じ音量ではおそらく載っている誰もが不快な思いをすると思うので、音量聞こえるか聞こえないくらいかまでいつも下げる。下げているので、多分聞こえていないんだと思う。そうと分かっていてもやはりどう受け止められているのか気になってしまうし、知らない人を載せた時なんかは「この曲知ってたりするのかな」とかついつい思ってしまう。

それくらいならまあ別にすぐどうでもよくなるのだけれど、1番変な感じになるのが父親一人を載せている時だ。大抵そういう時父親は酔っ払っていて、おそらく「音楽がかかっている」という程度の意識しかないのだろう。それが分かっていてもなお、なぜか自分の音楽のレベルが試されているかのような気分に陥るのだ。

父の料亭を継ぐ為に修行を重ねた息子が修行を終え、父に料理の味見をさせている感覚とでも言ったらいいのだろうか。左の酩酊した父親の姿を確認してもなお、そんな感覚に囚われるのだ。おそらく父親の意識がハッキリしていたとしても、「聞いたことない曲だな」くらいにしか思われないのだろう。それでもやはり父と子の関係が続く限り、謎の音楽料亭に迷い込むことは避けられなさそうな気がする。